30.第13回面白白樺倶楽部開催報告

2002年6月9日(日)
「ボヌール:バーナード・リーチと日本の美」
講師 東京大学教授 塚本明子

塚本先生は、東京生まれ東大教養学科、イギリス科を卒業。大学院をへて相模女子大学勤務ののち、英国オックスフォード大留学、帰国後筑波大助教授、東大助教授、から現在同教授をされております。先生は当文学館開館当時よりウイリァム・ブレーク、バーナード・リーチの紹介、関連資料の整備などに尽力され、今回は佐野館長よりのリクエストによって本講演が実現しました。
塚本明子先生
冒頭「バーナード・リーチという人は大変楽しく愉快な人でしたが、この人について語るということはあまり楽しくないことです。」と会場を笑いに巻き込んで始められました。
先生は、リーチが白樺派の人々との間に育まれた交流を通して、人生に大きな影響を受けたことを、自伝「東と西を超えて」(福田陸太郎訳 日本経済新聞社1982)の一部分を紹介されながらお話をすすめられました。

■柳宗悦との関係
『これらの若い知識人(柳宗悦ら白樺派同人 筆者注)達との交流は、その後の私の人生全般に確かに影響を与えた。多くの人はこれを全くの偶然だとしてしまうだろう。私は何年もかかって以下のような結論に達した。すなわちわれわれは、自分が必要としている機会も、人々も、そしてアイデアさえも、自分の方に引き寄せてくるという、これまで解明されなかった潜在能力を持っているに違いないということである。(中略)この確信はこの回顧録を書いている間にも強くなってきている。絶えず育ってきた私と柳との友情や交流は、確かにこの種のものであった。』(同上書 p69)
また柳宗悦ら白樺派のメンバーとの関係は、リーチにとって、とてもハッピーであったことが容易に読み取れます。
「ハッピー、幸福」とは、ハッピーマリッジというように、奥さんと主人がうまく行っている状態、しっくりいっている状態で時間的な概念をも含むでしょう。
日本という国で歴史的な運動を進めている有能な白樺派の若者に、たまたまのハプニングで出会い、ハッピーな時(仏語でボヌール幸せな時)を過ごすことが出来たと、我孫子時代を回顧した文章を挙げて説明されました。

■我孫子
『こうして、おそらく私の生涯で最も幸福だった年が始まった。私の師匠の六代目 乾山(けんざん)は、自分のb器用(せっきよう)の窯を再建しに出て来ていた。腕の立つ村の大工が、その窯のすぐ横に、窯自体にもトタン屋根のある立派な工房を建て
た。小さな円錐形の丘が柳の家(現三樹荘跡 筆者注)と土台柱の上に乗ったアトリエを分けていた。柳の妻兼子の歌声がしばしば聞こえた。――――彼女は日本で最も素晴らしいコントラルトの声を持っており、国内で最も有名な歌曲の演奏家になった。私は週末は家族と過ごし、月曜から金曜までは柳と彼の妻と暮らして、日本人との友情を固め、今でも世界中に波紋を立てている芸術運動初期に参加するとともに、人々とと交流をしそれによって交際の輪を広げていった。実際それはもっと偉大な何者かに融合していった。――二つの半球の結婚の前触れであった。(中略)
夜になると柳と私は度々討論を重ねた。また白樺派の志賀直哉や武者小路も参加した。
――彼等は二人共、名声を博しつつある作家で近所に住んでいたのだ。(同上書 p125)

開国した日本が西洋化を目指す一方、浮世絵などが高く評価されたヨーロッパでは、ジャポニズムといわれる日本ブームが興っていました。この二つの潮流がクロスし、融合しつつあるそのさなかにリーチは滞在していたともいえるとのお話でした。

彼が生まれた1890年ごろから、英国において、科学は永遠に進歩するものだということに対する反省から、「アーツアンドクラフト」運動がウイリァム・モリスを中心として湧き起こってきました。ヨーロッパ全体でもジャポニズムによってそうした反省が促進され、東洋と西洋、伝統と新しいもの、芸術と技術などこれらのクロスが、大きな時代の潮流となり、当時の背景となっていたのです。
リーチは直接日本人の柳等と交わり、芸術について徹底的に(つかみ合いにならんばかりの)議論を重ね、自分の芸術を追求していったことがうかがわれるとのことでした。
鉄絵魚紋花瓶(バーナードリーチ)
鉄絵魚紋花瓶:バーナードリーチ
(白樺文学館所蔵)
またリーチは詩人であると言われていますが、先生から見ると決して上手とは言えない。
彼は手(絵画、陶芸)で表現する人であり、自分の直感を大切にした人であったと指摘され
また、「東洋と西洋との結婚」などと誇大な思想を詩(注1)としているが、彼の後半生に熱心だったバハイ教という世界宗教の影響を受けたものであろうという、大変辛口なお話でもありました。
日本の美は「見渡せば花も紅葉も無かりけり……」と歌われたごとく、美しい物が沢山あることだけではない美しさ、余情の美しさを大事にされる文化でもあります。
こうした日本の美についての説明を富本憲吉より受けていたリーチにとって、富本は大変重要な存在であり続けたことをも強調されておられました。

「大の仲良しであったこの二人は互いに河童と呼び合っていたが、その理由が今も不明であります。」との先生より問いかけにに対し、会場はしばし静寂の後 「両人はお皿を作るのがお得意であったからでしょうね。」という佐野館長からの迷答で、一同爆笑。これにて今回はめでたくお開きとなりました。

(注1)
東 と 西  
私は東と西の婚姻のまぼろしを見た。
そして、はるかな時の会堂の先に、
子供のような声のこだまを聞いた。
どの位?どの位長く?
さようなら B・L.
(同上書 p403)