33.第15回面白白樺倶楽部開催報告

相原先生
相原先生は、地理の先生として柏日体大学高校に長く勤められたあと、東京で教科書編纂、母校法政大学講師などを歴任されています。
現在は、地元にて、大出俊幸さん、山本鉱太郎さんと流山博物館友の会(会員400名)の中心人物3人衆の一人として活躍され,環境問題とりわけ手賀沼の自然をまもるためなど、 幅広い市民活動を続けられてきました。
写真:手賀沼の風景
2002年の手賀沼(1)
1970年後半から80年代にかけて琵琶湖を始めとして湖沼汚染問題が取り上げられ、汚染度ワーストワンとして手賀沼が知られるようになります。
こうした時代の昭和58年(1983)、崙書房(ろんしょぼう)の竹島盤さんのおすすめで、先生は「難しいものをやさしく伝える」ことが教育の本質であるとの考えから、「やさしい、わかりやすい」内容を心がけてこの『手賀沼百話』を書かれたとのことです。

新任教師の時、伊香保で開催された教育研究会で、上原專禄(当時一橋大教授)さんから歴史学とは「地域→日本→世界を串刺しにすることだ」と教わり、身近な地元の調査からスタートしました。
土曜の午後、五万分の一の地図を片手に生徒と一緒に沼南地区の古墳跡を巡り歩いたりして、学校のまわりから土器とか貝殻などをバケツに一杯集めたものです。
手賀沼を身近な教材として五感を使って確かめるという教育方針から,自転車に乗って地域を回りましたが、クラスに2〜3名乗れない人がいて困りました。

「なぜ地域を学ぶのか」というと、日本はそれぞれ個性を持った地域があり,それぞれに豊な文化があります。その集まりが日本という国の文化や歴史を構成しているからなのです。
地域を学ぶことは日本を学ぶことであり、世界を学ぶことに繋がるのですと、先生は強調されております。
しかしながら、経済の高度成長は、こうした地域の文化をローラーで押しつぶし、中央の文化や価値観を平板に広げていったのです。

当時の教員に宿直(泊まりの夜警)があり、あらかじめ割り当て表で決められていましたので、
その夜を目指して生徒が遊びにきます。翌朝早く手賀沼にフナ釣りに行き,釣り上げたフナの甘露煮を作り、その匂いが校内中に広がり、騒ぎになったこともありました。
のどかな懐かしい時代であり、まだ手賀沼の魚は食べられたのでした。
身近な郷土手賀沼を教材にしていたあるとき、生徒から「先生が手賀沼爺(じじい)と言われてますよ。」と若いながら名誉の称号を耳打ちされたのもこのころでした。

また沼周辺の農業用水はゆたかで、少し前までは竹の節を抜いてつないだ筒を30メートルほど田に埋め込むと、地下水が自噴してきて、「ふんぬき」と呼ばれる自噴井戸がみられました。
その後工場の進出に伴い地下水位が年々下がり、今では見当たらなくなりました。

こうした現象を勉強することは、当時の日本を批判する危険思想であり、「公害」という言葉もまだ耳慣れず、「公害教育」は偏った危険思想であるとも考えられていました。
現代では全く誰もそうは考えてもいないし、言われません。

地域という言葉も、小学生は「わが町我孫子市、柏市そして千葉県」という行政区画でのくくりを教えられますが、地域は中身によって決まるものであります。たとえば手賀沼周辺の場合には手賀沼に流れ込む川の流域で地域を決めることなども考えられると思います。

『手賀沼百話』のときにお会いした人々として、志賀直哉の『和解』に登場する氷屋さん、沼南町に嫁してきた大町桂月の娘さん、濱田庄司のご長男琉司氏、手賀沼の生き字引といわれた深山漁業組合長さんなどなど、興味深い数々のお話は、まさに百話そのものでありました。

そのなかのお一人鉄道員として、大正10年(1921)から昭和7年(1932)まで我孫子駅に勤務していた木村斗鬼雄さんから先生が直接聴いたお話をされました。

青年駅員である木村斗鬼雄さんが我孫子駅で志賀直哉をみたのは、18歳で勤め始めた大正10年から京都へ引っ越す12年3月まででありました。
文学青年の木村さんは,志賀直哉が列車に乗降する都度、常に注目していましたが、ついに一度も我孫子の町の人に声をかけたり、親しげにする姿は見なかったとのことでした。
先生も白樺派の人道主義・理想主義は知識人を対象とし,庶民に関心は薄かったようであり、志賀の個人的性格も加わっていたのではないだろうかといわれました。

この件に関して講座出席者のとある志賀直哉ファンから、「彼志賀直哉は、我孫子の地で子供二人を亡くしつらい場所でもあった。この時期、特に大正10年以降は『暗夜行路』の後編の執筆に難渋していた時期でもあり、多少そうした事情もあったからではないだろうか。」と志賀直哉への同情的な発言もありました。

また木村斗鬼雄さんは杉村楚人冠の主宰する句会「湖畔吟社」の中心人物の一人で,そのときに「私が作ったものです」と示されたのが次の句でありました。

貧しけれど 人数(ひとかず)だけの 西瓜(すいか)かな

写真:手賀沼の噴水
2002年の手賀沼(2)
『手賀沼百話』以後大きく変わったところは北千葉導水路ができて、少しづつ水質が改善され つつあることはよろこばしいことです。一方では直径3.1m導管の耐久性とか,その維持管理コストとか, 建設費の詳細にかかわる情報がまだ公開されていません。今後解決されなければならない問題でしょう、と先生のお話を締めくくられました。