35.10月の面白白樺倶楽部開催報告

2002年10月15日(火)「柳宗悦と李朝白磁と民藝運動」
講師 朝鮮古陶磁愛好家 永井健雄

写真:永井講師
実物で説明する永井講師
この夜、美しい朝鮮陶磁の逸品が、白樺文学館に並びました。講師の永井健雄氏はサラリーマン人生の中で古陶磁の研究をされ、鑑識眼を養い、ご自分の眼で見、手で触れるため、古陶磁のルーツを訪ねる旅を重ねてこられました。その為にサラリーマン定年を早める決断もなさった方です。現在も旅を続け、研究者・蒐集家としてご活躍中の氏に、朝鮮半島の歴史、風土についてのお話を交えつつ、朝鮮陶磁の魅力を語っていただきました。折しもその日は、北朝鮮からの5人の帰国が報じられた日でもありました。

お話は別表を中心に、中国・韓国・日本の歴史、その時代時代の代表的な陶磁の紹介から始まりました。この日のテーマは「柳宗悦と李朝白磁と民芸運動」でしたが、〈李朝〉という名称は今日主として陶磁愛好家にとっては李氏朝鮮王朝時代の古陶磁そのものの代名詞ともなっています。〈李朝〉とは李氏朝鮮王朝時代を簡略化した呼び方でもあり、1392年、李桂成によって建国されました。1391年李桂成は請われて中国・元・明の戦いに参加しますが、元の形勢不利とみて、自国に戻り、高麗王朝を倒して李朝を建国します。この時の「建国の願文」は焼き物の形をとって朝鮮南北国境の北朝鮮側にある金剛山に埋められ、近年発掘され、その存在がはっきりしました。

写真:参加者
逸品に魅せられる参加者

柳宗悦は、この李朝時代の壺に、我孫子の地で出会いました。そしてその壺との出会いが後の柳の民芸運動に大きな意味を持っていきます。
1910年(明治43年)4月『白樺』創刊、8月日本は韓国を併合、そしてこのころ白樺派の仲間は次第に我孫子に集まってきます。1914年(大正5年)後に「朝鮮陶磁の神様」とまで言われた浅川伯教(のりたか)は、李朝の壺を携えて我孫子の地を訪れ、柳の住居「三樹荘」でその壺を柳にお土産として手渡しました。その壺が写真の「秋草文面取壺」です。この壺は柳に大きな感動を与え、その心を揺さぶったのです。この時以来、柳は朝鮮陶磁への関心を深めてゆき、さらに民芸運動へとその活動を展開していくことになります。
永井講師は、この壷の文様が『秋草文』と呼ばれているが、他の季節の花も多く染め付けられていることから、出川直樹氏(注1)が主張している『草花文』と呼ばれるべきであると述べられた。

筆者(注1) 結局『民芸』の原点とされ李朝工芸の象徴的な存在であるこの『秋草文壷』は『秋草文』でもなくまた『壷』でもない。梅花を含むこの文様は秋草と呼ぶべきでなく、徳利の下半部を壷と呼ぶべきでない。ふさわしい名称は『草花文瓢形徳利残欠』である。(以上 出川直樹著『人間復興の工芸』p215〜216より)

写真:秋草文面取壺
秋草文面取壺(日本民芸館所蔵)
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柳は、日本の日韓併合の政策を批判する論文を大正8年読売新聞に載せています。25年間に21回も韓国に渡り、自分の足で歩き、自分の目で見た品を集めて、朝鮮民族美術館を開設し、展示しました。
さらに日本での民芸運動は1936年日本民芸館の開館となって結実し、現在に至っています。我孫子で手に入れた「秋草文面取壺」は今も日本民芸館に収蔵されています。永井氏によりますと「見たところ少々汚いが、手にとってみると実にいい壺だ。」とのことでした。この壺は、元は瓢箪型徳利で、その上部が欠けていたものを切って下半分の形を整えたものだと言われていますが、その“キズ有り”の壺に大いなる啓示を受けた柳の感性はスゴイと思います。

この日の永井氏のお話は、柳の民芸運動のスタートの部分が主眼となり、李朝の焼き物の魅力に皆がひきこまれた夜となりました。(柳宗悦の民芸運動についての更なる研究は、次の機会に送ることとなりました。)