41.第19回面白白樺倶楽部開催報告

平成14年12月27日(金)― 文人の食卓(2)―
講師 石戸孝行(京北スーパー相談役)

講師の石戸孝行さん
講師の石戸孝行さん
昨年、朝日新聞に写真と共に掲載されたり、NHKFM放送でも取り上げられる など、大変反響がありました「柳兼子カレー考証」の続編として、第二回目が開催されました。
柳兼子さんは大正時代の文人柳宗悦夫人で、世界的なアルト歌手としてとして知られています。
聞き入る参加者
講師の石戸さんは昨年夏に、突然単身渡米、オレゴン州立大学に熟年留学して、回りをあっと驚かせました。今回は、冬期休暇の短い滞在スケジュールの間をお願いし、実現できました。
以下の講演要旨は、当日のレジュメをもとに、石戸さんの承認を得て掲載させていただいたものです。

事の始まり
そもそもの事の始まりは、『民芸』S54年(1979)8月号 「思い出すままに(柳兼子・談)」の中に、「カレーライスに味噌を入れたらうまいだろう」というリーチの発案で「田舎の粒味噌入りのおいしいカレーができた。」と掲載された記事があることを知った当面白白樺倶楽部代表世話人の高木繁吉さんから、「味噌入りカレーを再現しては」という提案があったことがきっかけとのこと。(高木さんが25年間にも渡って、大事に暖めていた企画であったとも。)
石戸さんはこのことに就いては、お仕事柄「どうしても他の人に任せるわけに行かなかった」とも述壊しておられ、その意気込みの程が窺えます。(石戸さんのお仕事は厳選素材の食品販売業の経営者。)
そうして生まれたのが前回とそして今回のお話とカレー試食会です。

柳兼子の我孫子時代は、柳家に寄宿したバーナード・リーチ(我孫子滞在は2年弱)も含め 1914年(大正3年)〜1921年(大正10年)のほぼ7年間でした。

柳兼子  1892年(明治25年)生まれ 22歳〜29歳まで
柳宗悦  1889年(明治22年)生まれ 25歳〜32歳
バーナード・リーチ  1887年(明治20年)生まれ 23歳〜25歳

当時の我孫子には何もなかったので、上野に住んでいたリーチは一週間分のパンや肉などを東京より持ち込み、週末にはまた戻るという生活で天神山の窯で陶器を焼いていました。
兼子さんも、一週に一度くらい、音楽レッスンと息抜きをかねて上京し、上野駅近くで食料品を買い込み、その店に預け、帰りに受け取ってはまた我孫子に戻るという生活でした。
リーチの好物は浜納豆、嫌いなものは、大根おろし、青じそ、うに、塩辛(『民芸』S54年(1979)8月号)だったそうです。1981年(昭和56年) 柳宗悦全集月報に連載された柳兼子夫人に聞く「我孫子の頃」によると、そのころ(大正初期)魚屋、八百屋は無いし、お菓子屋が一軒、うなぎの卸問屋一軒、ヤとつくのはお豆腐屋が一軒、缶詰を売っている店があり、『何も無いときは、鶏の片身を買ってきてカレーライスして、福神漬けをたくさんかけて食べた』とあります。

当時の我孫子の生業 我孫子市史研究センター 1982年11月23日発行
海老原鳥屋 花島卵屋 いずれも明治時代の創業 
仲買人が鳥かごを自転車に積んで5羽から10羽ほどを買っていた。

大正3年前後のカレー事情
カレー粉はインドからイギリスに伝わって行き、日本へはイギリス経由で入ったきたものといわれています。
明治の鹿鳴館時代(1880年代)の欧風化で、日本に最初に紹介された西洋香辛料は、イギリスの「C&Bカレー粉」であり、当時の定番カレー粉「C&B純カレー」は、「東洋の神秘的な方法によって製造された」という説明書がついているだけで、明治初期から約半世紀の間他者からカレー粉が発売されることが無かったため、独走状態でした。その後、このC&B クロス・アンド・ブラックウエル社は、スイスのネッスルの傘下に入り現在に至っています。

文明開化とカレー
明治10年以前に伝来したカレーは、このころからライスカレーに統一されたようです。
ご飯をライスと表現するハイカラブームの影響によるものと推測されます。
明治時代初期には、インド料理はなく、西洋料理の範疇にライスカレーがありました。

明治19年、『婦女雑誌』のライスカレーのレシピ
明治21年、「実地応用軽便西洋料理法指南」
明治26年、『婦女雑誌』。風月堂主人による『即席ライスカレイ』の作り方
明治31年、 石井冶兵衛の「日本料理大全」
等に紹介されたほか

明治37年5月の「家庭雑誌」に『カレーの味噌汁』の作り方として、

普通の味噌汁を少し濃く作り、できあがったところで、1合につき小匙に半分から1杯のカレー粉を加え、あたたかいご飯にかけて食べる。汁の実は鳥、牛肉のたたき、もしくは脂の強い魚と葱、にんじん、かぶらなどの取り合わせが適当です。あるいは玉葱とカレー粉を脂肪でいためてから、加えてもよろしい。

等と明示されています。後の味噌入り兼子カレーとのつながりが興味深いところです。
明治30年代には、カレー粉、アンチョビソース、オリーブ油、ケッパーなどはすでに、東京で手に入ったということは、一寸した驚きです。新し物好きの日本人気質はこのころからすでに始まっていたのでしょうか。
嫁入り文庫   大正6年実業の日本社  チッキンカレー 
奥様百科實典  1935年(昭和10年) 主婦の友新年号付録 ヘチマコロン
12月23日  横浜カレーミュージアム パク森カレー 醤油、味噌

100年前のカレー
もともとカレーライスはインドの香辛料で味をつけたソースを意味するもので、タミール語のカリ(Kari)からきているとのことです。このカレーライスはインドに駐屯していた英軍によって西洋人向きに改良され、欧米各地に広がったものとされています。日本に伝来したのが1859年(安政6年)幕末の開港以降で、こうした経緯によって純インド式ではなかったようです。
香辛料カリを使ったインド料理には羊肉とタンドリーチキンに使われる鶏肉が多い。
マトンとラムを使った代表的な料理として

インド   Roghan Josh (ローハン ジョーシュ)ラムカレー
フランス  Agneau de lait’ Agneau de Pauillac

(Agneau [アンニョー] 1年未満の羊・ラム)
(Mutton[ムトン] 1年以上に成長した羊)
Saute’ d’agneau au curry
(ソテ・ダニョー・オー・キュリー 仔羊のソテ・カレー風味)

日本式カレーは大正に入ってから ジャガイモ、にんじん入りのパターンが定番でしたが、大正4年から、豚肉がカレーに使われ始めました。また同時に明治のソース型カレーから、大正のシチュウ型カレーへの移行もこのころでした。
昭和2年新宿中村屋が本格的印度風「カリ・ライス」発売して大評判となり、当時のカレーは、10〜12銭だったところ、中村屋は80銭という値段で、カレーとライスは別盛りでピクルスも付いた庶民には手の届かない高級料理で売り出されたものでした。大衆食から、高級化路線に資生堂パーラーも追随して50銭の値段をつけました。
国産カレー粉は、1923年(大正12年)日賀志屋を創業した、山崎峯次郎によって、洋食屋や卸店に販売を開始しましたが、舶来もの志向が強い当時、相手にされませんでした。
家庭用カレー粉は「ヒドリ印カレー粉」として、1930年(昭和5年)ビン入りで発売。1951年(昭和26年)S&Bの「赤缶カレー」を発売しのちに、ヒドリ(日鳥)印を改め、S&B(Sun and Bird)印として現在に至っています。

柳兼子式「味噌入りカレー」作成の背景
基本的には「家庭実用献立と料理法」と軍隊の調理法を参考にして、我孫子の事情、白樺派の皆さんだったらどうであろうか等をいろいろ模索し、また当時のいくつかのレシピなどを考慮して作ってみました。
大正4年西野みよし著「家庭実用献立と料理法」には
講師自ら買い付けに行った北海道の幌加内のジャガイモ
講師自ら買い付けに行った
北海道の幌加内のジャガイモ
米5合、牛肉50匁、玉葱5ヶ、人参2寸、馬鈴薯2ヶ、バタ少量、メリケン粉10匁、カレー粉・カラシ少量、塩2勺、胡椒少々、生姜1ヶ

ほぼ現在のものと大きな相違はありません。

カレーの普及は軍隊から
軍隊の調理法(昭和12年陸軍省検問済み)にも記録があり、カレー普及には大いなる役割を果たしたものと考えられます。
第二次世界大戦中もカレーライスは献立にありましたが、帝国陸軍では敵性語統制のため、「辛味入汁掛飯」と呼ばれ、カレーも苦労した時代でありました。

軍隊カレー材料

カレー汁 熱量324カロリー 蛋白質18.5グラム
材料(1人前)
牛肉(または豚肉、兎肉、羊肉、鶏肉、貝類)70グラム
馬鈴薯 100グラム
人参 20グラム
玉葱 80グラム
小麦粉 10グラム
カレー粉 1グラム
食塩少々
ラード 5グラム

準備
  • 牛肉は細切りにしておく
  • 馬鈴薯は2センチ角位に、人参は小口切りとなし、玉葱は縦四つ割りに切り置く。
  • ラードを煮立て小麦粉を投じて攪拌し、カレー粉を入れて油粉捏を作り置く。
調理

鍋に牛肉と少量のラードと少量の玉葱を空炒りし、約350ミリリットルの水を加え、まず人参を入れて煮立て、馬鈴薯、玉葱の順序に入れ、食塩にて調味し、最後に油粉捏を煮汁で溶き延ばして流し込み、攪拌す。

備考
  • 温かき御飯を皿に盛りてその上より掛くればライスカレーとなる。
  • 本調理はまたパンの副食に適す。
今回作成のカレー材料(超厳選最高級素材・・筆者注)
    カレーの肉:
  • 純正名古屋コーチン(当時も農家は鶏を飼っていて、来客時やハレの時に用いた)
    たまねぎ:
  • 兵庫県淡路産 水分の多い柔らかな玉葱(米作後に植えられた)
    ジャガイモ:
  • 北海道雨竜郡幌加内町 メークイーン(野生の鹿が食べにくる)
    にんじん:
  • 茨城産
    味噌:
  • 信州味噌(茅野産)
    福神漬:
  • 1885年(明治18年)「酒悦」の野田清左衛門が考案したもの
    塩らっきょう:
  • 地場産(無添加無着色)

{参考}

食べ物一口メモ
  • 乳油(洋名・バタ) 本格的製造は明治3年から
  • 西洋料理は明治初頭より、「文明開化」の掛け声とともに普及していった。
  • 純粋西洋割烹店なる呼び方もあった。
  • 香辛料の歴史は、大正から昭和の初頭から広がった(原料が入らなかった)。
  • 米利堅粉(メリケン粉) アメリカから輸入された小麦粉。
  • メリケン波止場はアメリカの波止場ではなく、外国船の停泊する港。

{引用文献ほか}
たべもの伝来史(柴田書店)、カレーライスと日本人(講談社現代新書)、たべもの日本史総覧(新人物往来社)、栽培植物の起源と伝播(二宮書店)、にっぽん洋食物語(新潮社)、虹をくわえてきた鳥たち(オペラ手賀沼讃歌を語る会)、メニューの読み方(フランス料理の愉しみ)
特に「福音館書店・大和様」には数々の文献を自ら探し、自社のみならず、他社の文献まで紹介いただきました。

まとめ

世界一辛い唐辛子をオレゴンから持ち帰った材料のほか、ベトナムで買った魚醤、インドからの香料ターメリックなど世界中の珍しい食材の実物を手にとって、懇切丁寧に説明されながらのお話は、カレーの匂いあふれる会場では長いはずの時間が、誠に短く感じられるほどでした。
大航海時代の先人は、金1グラムと胡椒1グラムが同じ価値を有していたという香辛料をもとめ、生命の危険を顧みることなく、世界中を帆船で駆け巡ったということです。
こうした苦労の末に日本にたどり着いた食べ物を、我孫子に住んだ文人の食生活を通して学ぶことが、民芸運動や、文学創作活動を学ぶこと同じように、大変意義深いものであることを痛切に思い知らされました。

食文化 恐るべし!!

石戸さんのお話を聞いてから食べるカレーの味は文字通り、含蓄と滋味に富んだ、超一級の厳選素材のかもし出す誠に味わい深い、美味なカレーでありました。 今回は白樺面白倶楽部1年間の納会を兼ねて行われ、席上今年の文学館をご支援いただいた講師先生始めとする関係先ならびに館運営にご協力いただいたボランテアの皆さんに対し、佐野力館長に代わって渡辺副館長より、お礼の言葉で始まりました。

納会の乾杯写真
納会の乾杯写真・・・なぜか蝶ネクタイ

面白倶楽部代表世話人の高木繁吉さんから、今年一年間開催の12回の講演を振りかえり、ユーモアを交えての総括がありました。
来年の活動計画としては、我孫子市史研究センター始め外部団体との共同企画として、3月1日実施のバス旅「陶芸の里益子参考館と県立笠間美術館を訪ねて」(仮題)、5月24日出発予定の海外旅行「バーナード・リーチの窯セントアイビスと英国文学の発祥地・英国湖南地方を巡る」(仮題)、などが計画されているとの報告もありました。
「柳兼子カレー」の試食会並びに納会ビアパーテーも、石戸講師の講演余談で大いに盛り上がり、中締めは、名残を惜しみながら和やかに、我孫子ふれあい塾青木副理事長の音頭でお開きとなりました。

石戸講師への謝辞と納会中締め
石戸講師への謝辞と納会中締め


12月29日、朝日新聞に掲載されたのでご紹介します。