51.第22回 面白白樺倶楽部 開催報告

平成15年3月28日(金)
- ジェンダー(gender)の視点で 「暗夜行路」を読むと -
講師 文教大学教授 江種満子

(gender:文化としての性差、学習された男らしさ・女らしさ)

講演後の江種先生
講演後の江種先生

「暗夜行路」は、志賀直哉の唯一の長編として、何度か中断の時期をはさみながら、大正8年4月から昭和12年4月まで、18年間に渡って書き継がれた作品です。彼の生活や精神の軌跡(きせき)を追う上でも大変重要な作品であることは言うまでもありません。そして、志賀は、この我孫子の地で前編を完成させ、後編第四の三まで書きあげています。
『第22回 面白白樺倶楽部』では、その大作「暗夜行路」をとりあげて、文教大学教授・江種満子先生に作品批評をしていただきました。当夜の参加者の中にも、「暗夜行路」を若き日に読まれた方、あらためて今回読み直された方など、先生の本格的文芸批評に備えて準備なさった方も数多くいらっしゃったようです。
以下は「暗夜行路」のあらすじです。

〈前編〉
時任謙作は作家志望の高等遊民的な青年である。そろそろ結婚したいと思っているけれども、幼い頃から父に愛された思い出がなく、母からも厳しくされた記憶が残っていて、性格全体に影がある。母の死後、好きになれない祖父の妾宅(しょうたく)に移され、現在に及んでいる。幼なじみの愛子との結婚を望んで断られ、友人関係でも押され気味で不快を覚え、なにかと自己嫌悪に陥りやすく、放蕩(ほうとう)をはじめた。
行き詰まった生活からの脱却を考えるうち、亡き祖父の妾(めかけ)お栄との結婚を考え、兄に手紙で申し出たが、兄からの返信には謙作の出生の秘密が記されていた。自分は、洋行中の父の留守に祖父が母と間違いを犯した結果、誕生したのだという。幼いときから家の中で居心地が悪かったり、縁談がまとまらなかった理由はそれだったと判明し、謙作はますます放蕩に深入りする。
〈後編〉
謙作はあらたな出発を願って生活の場所を京都に移している。これが功を奏し、謙作は心身の健康を取り戻す。散歩の途中で見かけた若い女性を直感的に理想の女性だと思い、人を介して縁談を進め、めでたく結婚にいたる。妻の直子との間にこの上のない一体感をおぼえ、満たされる日々が続く。
けれども、長男が生まれて間もなく病死したのをきっかけに、夫婦の間には暗雲が立ち始める。謙作が朝鮮に旅行中、直子の従兄弟の要が留守宅を訪ね、直子と性関係をもってしまう。(直子は妊娠中か)謙作は、妻が母と同じ過ちを犯したことによって、父と同じ苦しみを味わう。この苦痛から解き放たれる道はあるのか。妻への暴力を経て、伯耆の大山にこもり、煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)するというのだが。

当夜、江種先生が、特にとりあげ、問題提起をしてくださったのは、〈後編〉の中、〔直子〕と婚約した〔謙作〕が、ふたりで南禅寺の疎水(そすい)べりを歩くシーンでした。

南禅寺の裏から疎水を導き、又それを黒谷に近く田圃(でんぽ)を流し返してある人工の流れについて二人は帰って行った。並べる所は並んで歩いた。並べない所は謙作が先に立って行ったが、その先に立っている時でも、彼は後から来る直子の、身体の割りにしまった小さい足が、きちんとした真白な足袋(たび)で、褄(つま)をけりながら、すっすっと賢(かしこ)げに踏み出されるのを眼に見るように感じ、それがいかにも美しく思われた。そういう人が−そういう足が、すぐうしろからついて来る事が、彼には何か不思議な幸福に感ぜられた。(第三の十二)

この箇所について、読み手はどのような印象をもつものでしょうか。例えば、谷川徹三が「何という清潔なエロティシズム」と評したことは有名です。[白い足袋]に包まれた[小さい足]というのは、どうやら男性にとって[理想的な女]の暗喩(あんゆ)になっているようです。ところが、女性がこの同じ箇所を読む時には、全く別の視点を設定する・・・という面白い現象があります。女性の読者は、自分自身を〔謙作〕ではなく、〔直子〕の側に重ねて読むので、この場面にエロティシズムを感ずることはありません。さらに、[足]というものが、人間の文化の中でどのような意味を持ち、どんな役割を担ってきたのかということについて先生のお話は広がっていきました。中国女性がかつて纏足(てんそく)をしていた意味、シンデレラのガラスの靴の物語、さらに、“特別立派な歯と足”を持ったがためにたいへん苦労をなさったという前参議院議員・田嶋陽子氏のエピソードなどもユーモアを交えて紹介され、会場は爆笑・・・。
特別立派な歯の田嶋陽子先生で笑いが
特別立派な歯の田嶋陽子先生で笑いが

一つの文学作品にどのような印象をもつのかは、その人の置かれた状況、性の違い、年齢などによってさまざまです。同じ作品の読み方も、経験を積む前と後とでは全く違ってくる場合もあります。“別の人の、別の読み方を知る”というのも、文学好きの人間にとってはこたえられない楽しみです。
読書体験発表する参加者
読書体験発表する参加者
今回は、参加者も、江種先生から意見を問われ、自己の体験や感想を語るという形で会が進行し、熱のこもった意見交換がなされました。暖かな春の宵、自らの人生を「暗夜行路」に重ねつつふりかえってみる・・・という体験を楽しんだひとときでありました。