55.第24回面白白樺倶楽部開催報告

平成15年5月9日(金)「現代教育と信州白樺派」
講師 啓明学園理事 武部優子

啓明学園理事 武部優子先生
「聖職の碑」を手にする武部先生
武部先生は東京に生まれ、八歳の時に両親の郷里である長野県に疎開し、信州大学を卒業されました。その後、東京の公立小学校教諭を経て、夫の転勤に伴い、三人の子供をつれて渡米。ニューヨーク在住中に、日本人学校設立の仕事に携わり、その日本人学校で4年教諭として勤務。帰国後は、海外子女教育振興財団法人、総合教育センター、学校法人啓明学園初等科教頭、校長を経て現在同学園理事をされています。
先生は長野県で教育を受けたのち、自らも教育者として現代の教育を実践してきました。その経験豊な半生を振りかえったとき、信州の教育に大きな影響を与えた白樺派の存在を強く実感されるとのことで、その熱い思いを語っていただきました。

はじめに、信州白樺派の代表的教師であった赤羽王郎について、渡辺副館長から解説がありました。雑誌「白樺」を通して、大きな影響を受けた赤羽王郎は、従来の長野師範の教育のあり方を疑問に思い、白樺派の理想主義の教育を実践しようとして、その結果職を追われました。柳宗悦は、王郎を我孫子に呼んで、自宅に住まわせ、一時期彼は、バーナード・リーチの窯の手伝いもしていました。その後、王郎は日本各地を転々とし、「漂泊の教師」と呼ばれる人生を送りました。

武部先生は、信州白樺派の教師達と、当時我孫子に住んでいた白樺派のメンバーとの交流の数々を紹介してくださいました。
  • 明治43年(1910年):雑誌「白樺」創刊 購読者数は、東京に次いで長野県が第二位。第三位は京都であった。
  • 雑誌「白樺」のロダン特集号に、感動したロダン本人から送られてきた三つの作品、西洋の複製画などの展覧会を信州の山村の各地で十三回も開催した。
  • 柳兼子は、独唱会を何回も開き、その一回は上伊那郡南箕輪村で、その村は武部先生の育った村の隣村であった。

  • (今井信雄著 「白樺の周辺による」)
身を乗り出してお話を聞く
身を乗り出してお話を聞く

次に、白樺派教師と呼ばれた教師達を描いた新田次郎の「聖職の碑」を取りあげられました。これは、大正二年八月二十六日、長野県上伊那郡中箕輪尋常高等小学校の生徒十名と校長が、修学登山先の西駒ケ岳遭難事件を題材にした小説です。この小説を書くにあたって、新田次郎は丁寧な取材を行い(昭和五十年)、当時の長野県教育界における、白樺派教師と呼ばれた若い教師達の姿を鮮明に描いています。本文の最後に載っている「取材記・筆を執るまで」で、新田次郎は聞き書きの形でこんな一節を書き留めています。
「聖職の碑」と「この道を往く」の表紙
「聖職の碑」と「この道を往く」
「いろいろあったが、一番問題にしていたのはこどもたちの個性を生かすような教育をするにはどうしたらいいかということだった。長所を生かすためには他の教科目を犠牲にしてもよいということではなくして、基礎教育はちゃんとやって、しかも本人の個性を生かすように指導しろというのが、その当時の教師がみな考えていたことだった」と。
大正七・八年を頂点に、信州白樺派の教育も変質していき、雑誌「白樺」の廃刊とともに、その勢いも失われていきました。上に述べられた言辞は、今の教育にも重要な理念です。

最後に武部先生は、近代教育の流れを明治五年の「学事奨励に関する被仰出書」、明治二十三年の「教育ニ関スル勅語」、昭和二十二年「教育基本法」、「学習指導要領(試案)」 その後の学習指導要領のうつりかわりについて説明され、現代の教育の実情を語り、本当の教育の基本は、「学びたい、知りたいという子供達にきちんと答えていく事である」、と強く訴えられました。
実学も必要だが、生きるために目指すものは高い理想であり、近年競争主義へと変質してきてしまった教育を見直すとすれば、あの大正時代における白樺派の個々人の自由な意思を尊重する精神こそ、現代の教育に必要なものでははいか、と熱意のこもったお話を締めくくられました。

写真:お話を聞く参加者
参加者に県会議員の顔も