59.第25回面白白樺倶楽部開催報告

平成15年6月13日(金) 「だから、僕は、書く。」
講師 ノンフィクション作家 佐野眞一

写真:佐野眞一講師
佐野眞一講師
「ああ、目の見えぬ三十年は、長うもあり、みじこうもあった・・・」
民俗学者・宮本常一は、元馬喰の老人が語る長い長い“色懺悔”に耳を傾け、その物語のしめくくりの言葉として、これを書き留めたのです。ここには、難しい言葉も、意味ありげな言い回しもありません。この部分を読んで、我々はこの老人が盲目であること、盲目になって以来三十年を生きてきたこと、その時間のながれを長かったと振り返るときもあれば、一方で、ほんの一瞬のように短かったと感じる時もあるのだということを知り得るのです。しかし、知り得た知識とは別に、その次の瞬間、説明しがたい不思議な感動に、胸が満たされるのはなぜなのでしょうか。世の中の片隅に、ほそぼそと紡がれてきた老人の一生が、この上もなく貴重なものに思われ、我々のこころを打つのはなぜなのでしょう。相手の心の奥底にまっすぐに届く言葉とは、一体どんな言葉なのか、そこにはどんな不思議な力が介在しているのか・・・、そんなことをしきりに考えさせられた90分間でした。

今回の「面白白樺倶楽部」で講師としてお迎えしたのは、ノンフィクション・ライターの佐野眞一氏です。佐野氏は、上記の宮本常一の取材姿勢や記録の仕方に、大きな影響を受けられました。それを氏は、「大文字」「小文字」という言い方で説明されています。
一見格好のいい、知性の証のような「大文字」言葉・・・しかし、その中身を問われて説明に窮することも多いものです。それに対し、平凡でつたない表現であっても、いつまでも確かな重みをもって、人の心に残っていく言葉、それが「小文字」の言葉です。宮本常一は、その膨大な聞き書きを「小文字」で綴るという手法で貫いた人でした。

現代社会には、華麗なレトリックに縁取られているように見えながらも、もはや手垢にまみれてしまっている「大文字」言葉が氾濫しています。また、携帯電話を片時も離さずメッセージを送り続け、インターネットで情報探索する生活も普通に見受けられるようになりました。しかし、そこに果たして本当のコミュニケーションは成立しているのだろうか・・・と、佐野氏は問題提起をされました。「読む力の減退」もそこに起因しているのではないか・・・と。
たとえ上手な表現でなくとも、自分の感動を、粘土を手で触るような質感をもって伝えることのできる話し手としての力、また正確に相手の話を聞きとり、さらなる話を引き出すことのできる聞き手としての力、その相互にやりとりする作用があって初めてコミュニケーションの世界は、命を得て脈打ち始めるのでしょう。
佐野眞一氏著書の一部
佐野眞一氏著書の一部
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民俗学者・宮本常一と、彼を生涯にわたって支え続けた渋沢敬三(我が国資本主義の祖・渋沢栄一の孫)についての評伝「旅する巨人」で、佐野氏は『大宅壮一ノンフィクション賞』を受賞されています。また、無着成恭の〈山びこ学校〉のその後を追った「遠い山びこ」、最近のものでは「東電OL 殺人事件」「だれが本を殺すのか」など著作は多数ありますが、いずれも実に綿密な取材活動にもとづいていることに驚かされます。
地上にあたかも小さな小石が転がっているかのように見えて、実はその小石は、土中の見えないところにある大きな岩の一部が露出していたものだった・・・「小文字」の言葉は、地下のおおきな岩を感じさせる迫力によって、人のこころを打つものとなるのでしょう。それは、具体的には、自分の足で“歩き”、自分の目で“見”、自分の耳で“聞く”という行為に裏打ちされているということです。また、人によっては、愚直なまでに長い年月をかけて一筋に続けてきた営為であったり、切実な実感であったりもするでしょう。安易なレッテルのように使われる「大文字」言葉には、その迫力を望むべくもありません。
写真:講演を聞く参加者
脳みそに汗をかきながら聞き入る
人間の精神の中で最大の価値は、「懐かしさ」と「ユーモア」である、また、自分の精神を、生きた証として次世代に渡すことが人間として生きる価値である・・・と、佐野氏はお話を締めくくられました。志賀直哉に傾倒した小林多喜二へも言及された氏の語り口は、物静かで淡々としたものでした。しかし、「小文字」の迫力を持って、確実に我々聴衆のこころに届いたのです。(西村さち子)
写真:著書サイン即売会
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