60.「新しき村」訪問記

村の入口に咲く矢車草
村の入口に咲く矢車草(クリックで拡大
6月9日、スタッフ研修を兼ね、埼玉県の「新しき村」(埼玉県入間郡毛呂山葛貫423) を見学してきました。
前回2月に訪れた時は、冬の曇天の下、寒々として見えた村の景色も、今回は一転、矢車草、紫陽花、栗の花などが咲き誇り、美しい季節を迎えていました。村の入口には、大きな木製の柱・・・そこに記された武者小路実篤の言葉『この道より我を生かす道なし。 この道を歩く。』が、我々を暖かく歓迎してくれているようでした。 「新しき村」は、実篤が大正7年(1918)、当時の社会のあり方に飽きたらず、理想の社会をつくろうと、千葉県我孫子での生活に別れを告げ、同志18名と、宮崎県・日向に創設したのがその始まりです。“自由に生き、互いの個性を認め合い、尊重し合う”という理念は、封建的な古い価値観が残る当時の日本では、画期的な考え方でした。実篤の理念に賛同する若者達が全国から集まり、労働の傍ら、創作した小説や絵画を批評し合うなど、当初は喜びと活気にあふれた活動を展開していました。しかし、理想と現実の食い違いに悩み、脱落する者があらわれ、それぞれの考え方の違いなどが浮き彫りになっていく中、19人でスタートした仲間も、しだいに減っていきます。また実篤も、村の運営を経済的に支えていくため、夜を日に継ぐ執筆活動を強いられることとなりました。やがて、その地にダムの建設計画が持ち上がり、村の土地のほとんどが水没することとなったため、日向の「新しき村」は、その活動母体を現在の毛呂山に移すことになったのです。しかし、今も宮崎の日向には、当時の村の活動を引き継いで、2家族(4人)の方たちが暮らしています。

雛10羽から始まりました。5月3日のことでした。10羽から始めた養鶏も、最終的には5万羽に増え、現在では養鶏が、村運営の経済的基盤を支える事業となっています。(我々も、おみやげに卵を購入しました。オイシイ!)
渡辺貫二さん
渡辺貫二さん(クリックで拡大
今回、お話をうかがったのは、村内にある『武者小路実篤美術館』館長の渡辺貫二さんです。渡辺さんは、村での生活も既に55年になり、90歳を過ぎた現在もたいへんお元気でした。若き日の渡辺さんのお仕事は大工さん・・・当時の「新しき村」での渡辺さんの役割は、住まいや、作業場を造るという戸外での仕事が多く、一方、「新しき村」を構成する若者の大部分は文学を志す人たちで、実篤自身も屋内で執筆を続ける日々・・・渡辺さんが実篤に名前を覚えてもらうまでに1年かかったそうです。 やがて村の運営も軌道に乗り、最盛期には64名が在村していました。人が増えるにしたがって、8時間労働も6時間に短くなり、 余った時間は、近所の農作業の応援に出たそうです。 この時以来、村外の人たちとの交流も始まり、今でも九月の村祭りには、村外から千人近くの人が集まるとのこと・・・。
当初、村への資金の貸し出しを渋っていた農協も、村の順調な運営状況に安心し、後には借りて欲しいというほどになったそうです。

村は、創始当時の理念を守り、自給自足を原則として運営されています。
余剰金がでた場合は、『実篤美術館』へ収蔵するための作品を購入するのに当てられ、また、子供たちは、小中高を通じその学費は無料で、大学へ進学するときは、学費として200万円支給されることになっています。 実篤自身は、既に大正14年、日向の「新しき村」を出て、執筆活動に専念していました。しかし村を出てからも、彼の村への支援と交流は続きました。また、渡辺さんの誕生日には、毎年、実篤から花と作品が贈られたそうです。いかにも実篤らしい暖かな心配りが感じられるエピソードです。

この日「新しき村」で出会ったひとりの老婦人の言葉・・・「娘時代に東京で、柳兼子さん(柳宗悦の妻・アルト歌手)の歌曲を聴きました。その時、大好評を博したのが『苗や苗』・・・いい歌ですよねっ!」
「苗や苗」
苗(なえ)や苗 苗をめせ きゅうり とまとに 茄子(なす)の苗
伸びて凉しや 夕顔の 月の雫(しずく)の 化粧花(けしょうばな)
苗や苗 苗
(作詞 林柳波  作曲 杉山長谷夫)

『苗や苗』は、「白樺文学館」音楽室で聴くことのできる曲のひとつで、現在も来館者の皆様に楽しんでいただいております。
武者小路自画像
武者小路自画像(クリックで拡大
今頃、毛呂山の畑では豊かに作物が実り、夏の花々が風に揺れていることでしょう。柳兼子の歌の調べに耳を傾けると、毛呂山の自然の中、「新しき村」の理想に燃えて、鍬をふるった当時の若者達の姿が、彷彿として浮かんできます。
(宮井久子)

(なお、「新しき村の歩み」についての詳細は、下記ホームページをご参照ください。)

http://www5a.biglobe.ne.jp/~atarasi/