67.「李朝の工芸と柳宗悦」

第28回面白白樺倶楽部開催報告 平成15年9月12日(金)
講師 日本民藝館 学芸員 尾久彰三(おぎゅうしんぞう)

講師の尾久彰三先生
講師の尾久彰三先生
講演の前に講師の尾久先生を、手賀沼のほとりにご案内しました。30年前のことを懐かしそうに思い出されて「1973年、バーナード、リーチの記念碑が出来たとき以来の我孫子です。」と駅周辺の大変な変わり様に驚いておられました。
面白白樺倶楽部、回を重ね28回目にして、以前からの願いがようやく叶い、「日本民藝館」の尾久彰三先生をお迎えすることができました。
尾久先生の著書を読んで伝わってくる「温かい心と、ゆったりした余裕の雰囲気」、そんなお人柄を感じさせられ、お話も実に豊かで、奥深いものでした。
また先生は、柳宗悦を語るとき常に柳先生、柳さんと、きちんとした呼び方をされ、その事も大変印象に残りました。(ここではそれを省略させていただく御無礼をおゆるしください) 今でこそ李朝陶磁のすばらしさ、美しさは、世界に知られていますが、この李朝陶磁を世の中に紹介したのは柳宗悦先生とその何人かの友人達だったのです。その柳先生を語るには、まず先生の出自からでしょうと、この夜のお話は、はじまりました。

地元陶芸家の姿も
地元陶芸家の姿も


柳宗悦の生い立ち
1889年(明治22年)東京市麻布区市兵衛町に生まれ、父楢悦(ならよし)は海軍少将、宗悦(むねよし)は1歳10ヶ月で父と死別、この天才的偉人を育てたのは、母、勝子でした。
日露開戦(1904年)の頃までは、柳宗悦は、明治政府要人の子弟として国家の方針に従う、学習院の優秀な生徒であったのですが、1905年9月5日の日露戦争の終結は、柳の心に、新しい展望をもたらしていったのです。
日露戦争勝利、軍国主義一色の中で柳は、学習院高等科在学の19歳のとき、学習院在籍者の父兄に向けた冊子に「聖なる勇士」を投稿、その内容が大問題になり、職員会議で退学処分の方針となりますが、それを押しとどめたのは、西田幾多郎でした。以下はその「聖なる勇士」の一部分です。

「噫(ああ)人は憐れむ可(べし)、卑しむ可、外界の敵を殺戮(さつりく)して、尚誇りとなし、世は巨額の黄金と高貴なる位爵(いしゃく)とを以って其の労に酬(むくい)ゆ。ああさらば。赦(ゆる)す可からざる憎む可き内界の敵を征服したる時、人は何ぞ、そを名誉となさざる。かくて得たる神の是認、精霊の慰安、ああそは、至高至極の祝福にあらずして何ぞや。吾れ等は、カイザルのものを得んが為に争う可からず、神のものを返さんが為に戦う可き也。地のものに仕ふる人々を憐れむ可し、されどかかる自己を赦す可からず。ああ黄金の為に、地位の為に、名声の為に、他人と争うものは禍也。されど真理の為に、至善の為に、正義の為に、自己と戦うものは幸也。」

柳の生涯を通じての反骨精神は、ここに其の萌芽を見せるのです。 ともあれ柳は、成績優秀者に贈られる、「銀時計」を、いくつも貰って、学習院、東京大学を卒業します。この柳の学問の指導にあたった「師」は、西田幾多郎、鈴木大拙、等、後の日本の文化を築いた人物たちでした。

1910年(明治43年)雑誌「白樺」創刊。
柳は、学習院高等科在学中に同級の郡虎彦と「桃園」という、たった二人の回覧雑誌をはじめます。その上のクラスの里見ク、園池公致らは同人誌「麦」、さらに上のクラスの志賀直哉、武者小路実篤、正親町公和、木下利玄の同人誌「望野」の三誌がまとまり「白樺」として創刊されました。日露戦争勝利後の軍国主義に対する反感は「白樺」同人を結びつける共通の思いであったといわれています。

1910年(明治43年)4月1日に、第1巻第1号が発行され、第8号ではロダン第70回誕生記念号として発行されます。この号と浮世絵などがロダンの許に送られ、ロダンからお返しとして作品が3点「ごろつきの首」、「ある小さな影」、「ロダン婦人の胸像」が送られてきました。この3点は現在「白樺美術館」より寄託され、倉敷市の大原美術館に収蔵されています。

柳宗悦と李氏朝鮮
1914年(大正3年)柳宗悦は、中島兼子と結婚し、我孫子に住む最初の白樺文人となります。その年の9月、浅川伯教(のりたか)が李朝陶磁(秋草文面取壺)を携え、柳宅を訪ねました。浅川は、彫刻家になる希望を持っており、当時柳家にあったロダンの作品を見たいが為の訪問でした。柳は、この李朝陶磁との巡り合いで、朝鮮民族の持つ美意識に大きな感動を受け、この事を契機として、浅川伯教らと共に頻繁に朝鮮に渡り、広く世の中に李朝陶磁の素晴らしさを紹介していったのです。

1919年(大正8年)に起きた朝鮮の3・1独立運動は、ソウルのパゴダ公園を中心に、朝鮮全土に広がりに、日本の官憲は武力をもってこれを制圧、この日本の弾圧による死者、韓国全土で約6,670人、負傷者は14,600人、投獄された者、52,730人にのぼったといわれています。
この年の5月20・21日にわたり、柳は読売新聞紙上にて「朝鮮人を思ふ」を発表し、日本の朝鮮併合を批判しました。当時、韓国併合を批判した知識人は、柳を含めわずか6名に過ぎず、この論文の発表は非常に勇気ある行動でありました。この3・1独立運動は、柳を決定的に朝鮮にのめり込ませ、切っても切れない朝鮮との縁を結ぶ契機となり、1920年(大正9年)12月、柳は、朝鮮の民族美術館設立の為に運動を始め、1921年(大正10年)「白樺」の1月号に「朝鮮民族美術館設立趣意書」を発表、その資金集めの為に妻兼子と共に大変な努力をし、1924年(大正14年)京城府に「朝鮮民族美術館」を設立しました。

李朝工藝から民藝運動へ
柳は、李朝陶磁に惹かれ、李朝の工芸品の美しさに引き込まれていきますが、これらの作品はみな無名の工人によって造られた物であることを思い、民族の工藝の伝統は日本にもあると着想し、日本の工芸へと、自身の目をむけていきます。後に木喰仏(もくじきぶつ)を見出し、それを探し求める旅は、同時に日本民芸運動への旅ともなり、1936年(昭和11年)10月24日の「日本民芸館開館」へと繋がっていくことになるのです。

尾久先生は「柳先生がなぜこれほどまでに李朝の工芸に惹かれていったのか、その答となるものが、この文章の中にあります。」と仰って、大正10年雑誌「白樺」1月号の「朝鮮民族美術館設立趣意書」の一節を引用されました。


ポジャギ
ポジャギ
(「これは骨董ではない」晶文社より)
クリックで拡大
「私は先ずここに民芸芸術としての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於いても、私はこの美術館に於いて,人々に朝鮮の美を伝えたい。そうしてそこに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族芸術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希(ねが)ふ。」

「柳先生は消えようとしている李朝(1392年から1910年)の工藝の美しさを、喧伝して、それを朝鮮民族の誇りとしてほしかったのだと、思います」。と、李朝の工藝と柳宗悦との関係をまとめられました。
名も無い職人たちの造った、用のための工芸品には、それが美を追求したものでない故の、美しさがあり、無心でつくられた道具たちには、すべてに美はやどるのです。
この美に反応する心の韻律をもち、豊かな共鳴の心を持つならば、あらゆるものに宿る美を感ずる事ができるでしょう。

これは骨董ではない
尾久先生は、御著書「これは骨董ではない」」中の一節「書」についてもふれ、先生の若い友人の祖母の書いた手紙と、小林多喜二の母の書いた手紙とを見たときの感動をお話されました。

小林多喜二の母の覚書
小林多喜二の母の覚書(小樽文学館)
クリックで拡大
とりわけ、小林多喜二の母が、殺された息子を思う心情を述べた「書」の美しさについては、獄中の息子と連絡を取る唯一の手段が手紙しかなかったため文字を習い、殺された息子の命日に書きのこした「書」を小樽文学館で見た時「涙が出るほど感動した」と述べられました。 また、野口英世の母の手紙も、例に挙げられ、「これらの美しさの根源は、我を忘れて懸命に伝えようとする親の気持ちそのものであり、また、私を捨てきって子に伝えたいという、親の懸命な姿が見るものに感動をあたえるのです。」と実にこころうたれる話をされ、聞く側も思わず目頭を熱くしながらおうかがいいたしました。

「六字六字ノ捨場カナ」
最後に柳の「心偈」(こころうた)の中の「六字六字ノ捨場カナ」を読み上げられました。

「南無阿弥陀仏を稱(とな)へるといふことは何なのか。何か功徳(くどく)を希ったり、酬いを求めたりする念佛なら、念佛とだに云ふことは出来まい。念佛とは、己れを棄てることなのである。「六字六字」がその捨て場なのである。念佛に活くるとは、己れを六字の中に捨てきることである。之なくして、己れの生きる道はない。彌陀(みだ)の摂取(せっしゅ)とは何なのか、捨てる吾身を受け取って下さることなのである。念佛には、己れが残ってはならない。念佛の有難さは、その捨て場を吾々に贈ってくれることである。古人が「赤子念佛」を讃えたり「空念佛」の意を説いたりするのは、何れも私を捨て去った念佛への讃仰(さんぎょう)である。」

李朝工藝の魅力を直に聞く
李朝工藝の魅力を直に聞く

「すぐそこにある。また身近にある 湯飲み一つにも美はある。」

尾久先生はこの言葉を、柳宗悦から我々への福音とも言えるメッセージなのでしょうと話され、この日の結びの言葉とされました。 (石曽根四方枝)

購入著書のサインに行列
購入著書のサインに行列