83.開館3周年特別企画 講演「我孫子25年」

第32回面白白樺倶楽部開催報告

平成16年1月18日(日)
講師 慶應義塾大学出版会(株)社長・作家 坂上 弘

身振り手振りを交え講演する坂上弘さん
講師の坂上弘氏
開館3周年特別企画第32回の講師は、我孫子在住の作家坂上弘さんです。
講演開催当日、1月18日付け日本経済新聞朝刊学芸欄「人を語る」に坂上さんのプロフィールが、絶妙なタイミングで掲載されましたので、そのコピーの配布がご紹介の代わりとなりました。
お話の冒頭、坂上さんは当白樺文学館が大変お気に入りで、志賀直哉旧居跡散歩の途中、たびたび立ち寄られ、資料室を書斎代わりに調べものをされたりしているという、うれしいお言葉もありました。
以下、坂上さんの年譜と30冊近い著書リストに従い、作家生活をめぐるお話のあれこれをお伺いしました。(坂上弘氏の年譜はこちら

19歳の芥川賞候補
満席のコミュニティールーム
19歳で第33回芥川賞候補
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つい先ごろ第130回芥川賞に19歳の女性が受賞して大きな話題になりましたが、坂上さんも、昭和30年慶応義塾大学在学中の19歳で発表した「息子と恋人」が第33回芥川賞候補となり、当時の選考委員のお一人瀧井孝作さんから「カンバスに絵の具をぶちまけたやうな荒っぽい、テンポの早い、無雑作な軽い筆触に、何か新味がある」と激賞され一躍注目を浴びました。
受賞されていましたら、今回の綿矢りささんは、坂上さん以来49年ぶりの19歳受賞となった?はずでしたが・・・。
そのときの受賞者は遠藤周作さんでした。
坂上さんは当時を振り返りつつ、作家には読者が常に3人存在する。1人は自分自身であり、2人目は支えてくれる親友のような人、あるいは編集者、3人目は批評する人(往々にして競合相手)で、このたびの若い新人が今後自分の文体を作って、この自らの読者をどのように持ちつづけることができるのかが、他人事(ひとごと)とは思えず大変気になるとのことでした。
慶応義塾大学では「三田文学」の編集者山川方夫(まさお)に認められ、彼に勧められて書いた作品が芥川賞候補となり、その後「ある秋の出来事」で中央公論新人賞を受賞しました。芥川賞候補が縁で選考委員の瀧井孝作さんに認められた頃、「魚屋の親父(魚釣り好きの瀧井孝作)になんか可愛がられてもしょうがないよ」などと北原武夫に揶揄されたりもしました。
しかしその後、志賀直哉を師とされる瀧井孝作さんや尾崎一雄さんと長いおつき合いとなり、坂上さんはいわば、志賀直哉の孫弟子ということに、なるのではないでしょうか。

三田文学のころ
昭和35年に慶応義塾大学を卒業、理研光学工業(現リコー)に入社、定年の60歳までビジネスマンと作家との二足のわらじ生活をはじめることになります。  
学生のころ芸術家とはどういうものか、ということを教わった生涯忘れることの出来ない、二人の芸術家がおりました。一人は三田文学編集長をしていた山川方夫であり、もう一人は作曲家の武満徹でした。
山川方夫からは人間の才能とは「どれだけ早くに(好きなもの)を選んだか」で決まるということと、また「他人とは何なのか」ということが「文学者にとって一番大切なことなのだ」と聞かされて以来、現在までも「他者を書くことが永遠のテーマ」であると述懐されています。
武満徹からはアルバイトのラジオドラマの音楽を作ってもらい、助けてもらった。山川方夫は交通事故により34歳で、武満徹は60歳といずれも若くして亡くなったことは誠に痛恨の極みであり、二人の命日が同じ二月二十日というのも不思議な気がするとのことでした。志賀直哉をこよなく尊敬していた小林多喜二も二月二十日が命日です。

北原武夫と宇野千代
三田文学のころ、もう一人絶賛してくれた作家に北原武夫さんがいます。奥様の宇野千代さん(42歳で北原と結婚62歳で離婚)と「スタイル社」を経営されましたが倒産。返済しきれないほどの借財を背負いましたが、北原さんは「ムチムチ小説」を書いて全額返済されたそうです。
北原さんが亡くなった後、全集を担当することになって、美人の誉れ高い奥様の宇野千代さんを自宅におたずねしたことがありました。家の奥の薄暗いところに屏風があり、お顔が見えにくく、目を凝らし伸び上がってお会いしたものでしたが、気品のある美しさがただようようにお見受けしたそうです。
北原武夫の没後、坂上さんはいくつか書いた追悼文の中で、生前「君には子供がいるかね?」という質問をされ「はい息子が一人いますと」答え、そこで会話が途切れたことがあり、唐突なことでもあり、その真意をはかりかねると書いたことがあります。
一年後のある日宇野さんから「雨の音」という小説が送られてきました。この小説は宇野さんによる北原との生活のすべてを語った伝記です。その小説の最後の部分に、主人公の吉村(北原武夫)が、若い作家(坂上さん)に尋ねた質問の意味は、その当時、北原にも息子が居て「ソルボンヌ大学に通っているんだよ」と声に出したかったのだろうと記されていました。坂上さんは、やっとそのとき質問の意図が理解できたとのことでした。


「君には子供がいるかね?」

昭和53年我孫子へ
40歳すぎて米国留学のあと、仕事も忙しくなり二足のわらじ生活も限界に近い状態のころ、我孫子に引っ越してきました。昔とかなり変貌した手賀沼周辺より、昔とあまり変わらない風景の利根川べりのなにもない土手を今でも好んで歩いています。我孫子をえらんだのは、繰り返して読む「和解」を書いた志賀直哉の住んだところということもあったのでしょう。我孫子にきてからは、なぜか二足のわらじのバランスが取れ始めたのです。さらにまた我孫子に来ての利点として文壇と距離が保てるようになり、時間が出来、作品も充実したものが書けるようになったこと、子供の教育のためにも大変プラスになったことなどをあげられました。

文学には三人の読者が必要であると共に、お互いに和して同ぜずの仲間が必要であります。一人では発展性がなく仲間同士の切磋琢磨が欠かせないということから季刊の同人誌「文体」を昭和52年に発刊、同56年の45歳で「初めの愛」芸術選奨新人賞受賞、平成二年55歳で「三田文学」編集長、平成四年「優しい碇泊地」で読売文学賞及び芸術選奨文部大臣賞受賞。「田園風景」で野間文芸賞を受賞するなど我孫子での充実した活躍には眼を瞠(みは)るものがあります。
我孫子の利根川縁風景を見事に描くことから、作家の安岡章太郎さんから「土手を書くのがうまい作家!?」の称号も頂戴したのは、丁度この頃でした。

志賀直哉と我孫子
志賀直哉は我孫子で多くの優れた作品を残していますが、我孫子そのものを書いたものはそれほど多くはありません。坂上さんは何度も読み返した「和解」の後半の一行に注目されています。(「残照の山を降りて」坂上弘1995講談社)
「濃い霧に包まれた山奥の小さい湖水のような、少し気が遠くなるような静かさを持った疲労だった。」

熱心に聞き入る参加者
我孫子が「和解」を・・・(クリックで拡大
この部分はどこにも手賀沼とは書いていないが、まさしく我孫子が書かせたものでしょう。このお話はこの日の参加者の心に、強く働きかける響きと、余韻となって後々に残る言葉でありました。

結び
昭和35年に入社された時の会社売上は37億円、その会社を去られるときは二兆円という、超高度成長期を二足のわらじで過ごされたことは、想像をはるかに超える困難さがあったことが窺われます。その会社のトップは三代続けて現職のまま亡くなるという猛烈ぶりだったそうです。この、人間として生き切った会社経営者の内面を愛着をもって描いた「眠らんかな」という最新作を講談社から昨年11月に刊行されています。
「眠らんかな」表紙
坂上さんの最新刊(クリックで拡大

著書にサインをする坂上さん
「眠らんかな」に署名(クリックで拡大
坂上さんの今後ますますのご活躍と、興味深い新研究の成果を皆さんと共に、楽しみにお待ちしたいものです。

講演会終了後、坂上さんを囲んで、白樺文学館3周年と新しい年を祝ってのビアパーテーを和やかに開催、平成16年度第一回の面白白樺倶楽部、めでたくお開きとなりました。
講演終了後 当館館長も乾杯
新春と3周年に乾杯(撮影Wooder)