84.「あー また二月がくる」

多喜二没後71年を迎えて(関連ページ:白樺便り43号

小林多喜二の母セキは、明治6年(1873)秋田県の貧しい農家にうまれ、学校へも行けず文字も書けなかったのですが、刑務所に囚われた多喜二への手紙を書くために、、娘のチマ(多喜二姉)にも内緒で文字を勉強しました。
苦労のすえようやく覚えた文字で手紙を書き送っていましたが、昭和8年(1933)2月20日、息子多喜二は築地警察署で殺されてしまいます。国家に反逆した罪人となって死んだ多喜二の母セキの悲しみは・・・。

母セキの没後、彼女の行李(こうり 柳や竹で編んだ衣類入れ)の奥底にひっそりと保管されていた、自筆の深い思いのこめられた紙が発見されました。

あーまたこの二月の月かきた ・・・
心おぼえがき(資料小樽文学館提供)
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朗読会の様子
第一回企画展 朗読会風景
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昨年開催の白樺文学館第一回企画展「励ましの手紙展」の関連イベントとして行われた「朗読会」で読み上げられ、多数の参加者に大きな感銘を与えました。

また88歳の多喜二の母セキの秋田なまりの話し言葉で綴られた、小説三浦綾子著「母」(平成8年6月角川文庫)には以下のように書かれています。

「母」三浦綾子
なあに?そこにある紙は何ですかって? ああ、これか。これは見せられない。泣きごとだ。わだしの泣きごとだ。
二月が近づくとなあ、多喜二が死んでから三十年近く経ってもまだ心が暗くなる。・・・・・・あんまり下手で恥ずかしいども、作ったというか、書いたというか鉛筆持ったらこんなのができたというのか、ま、そんなもんだ。
あーまたこの二月の月かきた
ほんとうにこの二月とゆ月か
いやな月こいをいパいに
なきたいどこいいてもなかれ
ないあーてもラチオて
しこしたしかる
あーなみたかてる
めかねかくもる 
多喜二伝の表紙
昨年11月、論創社
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昨年11月、論創社から出版された、多喜二の最も詳しい評伝とされる大作、「小林多喜二伝」の中で、著者の倉田稔小樽商科大学教授は「この詩は日本で最高級の詩である」と言葉少なながら万感の思いを込めて、強く読者に訴えかけています。

あ―、またこの二月の月がきた。
本当にこの二月という月はいやな月。
声をいっぱいに泣きたい。
どこにいっても泣かれない。
あ―、でもラジオで少し助かる。
あ―、涙が出る。
メガネがくもる

(倉田稔著「小林多喜二伝」第7章多喜二残照より)

→関連サイト:白樺文学館 多喜二ライブラリー