85.「白樺文人のお正月」

第33回面白白樺倶楽部開催報告

平成16年2月13日(金)
講師 地域社会史研究家 高木繁吉

4回目の登場

「面白白樺倶楽部」の代表世話人の高木さんは、この度で4回目の登場です。前々回は、「手賀沼の風景と文人の住居」、前回は「柳宗悦と柳田國男」でした。今回の「『白樺』の文人たちのお正月」では我孫子に白樺の文人たちがが住んでいた頃の、お正月の風景を際立たせるという趣向です。

《当時のお正月》

「白樺」の文人たちが我孫子に住んでいた頃の我孫子のお正月の行事を推測する事が出来る記録として、湖北座会「昭和初期の湖北歳時記」が紹介されました。

[一月]

  • 一日(元旦)

    初参り、年神様、若水、年神様のお膳、三が日の供物

  • 二日

    仕事始め、初荷、寺年始、年始廻り(花嫁の年始)

  • 三日

    大工の仕事始め、職人の年始

  • 七日

    菜飯(七草粥)

  • 八日

    山の神

  • 十一日

    お供えくずし

  • 十六日

    薮入り、二十日(初地蔵)、二十四日(初地蔵、天神講)

等など、現在にも残る行事の数々と共に、興味深い展開となりました。

写真:20年前の広報を片手に解説する高木さん
20年前の広報(クリックで拡大

高木さんは、我孫子市史の担当者として我孫子の歴史研究に関わった時、我孫子の家々を隅々まで回って、家々に残っている日記を見せてもらい、貴重な記録を蒐集されました、そのおりの興味深いお話をされました。 それから、20年ほど前に我孫子市広報に載った明治、大正、昭和初期の我孫子の住人(当時、日記をつけていた人)の日記の紹介へと進みました。

  • 明治31年五十嵐政兵衛(15歳)高等科3年 旧布佐町在
  • 明治38年井上二郎(32歳)開墾地主・土木技官 旧布佐町在
  • 大正12年、13年志賀直哉(40歳)文学者 旧我孫子町在
  • 昭和3年杉村楚人冠(56歳)新聞記者 旧我孫子町在
  • 昭和10年増田実(36歳)農業 旧湖北村在
  • 昭和26年田口静(43歳)医師 旧湖北村在
1981年1月16日我孫子市広報「あびこ」より
記事:日記に見る年初めの諸相
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そして、本題の文人の年始めとなりました。

《志賀直哉のお正月》

大正11年1月1日に書かれた志賀直哉の日記(当用日記)の傍記に

「自分の生活を完全に創作本位のものに煮詰める」

と書き、格段の決意の年としようとしますが、翌年12年の1月6日の日記に

「臼井史郎来る。木下訪問、留守。中氏訪問、留守。瀧井の家に行く。 臼井夜かへる。「暗夜行路」暫く休む事にする。」

とあり、志賀がこのお正月「書かない」決意をしたのでしょうか。

《柳宗悦のお正月》

大正4年1月10日 柳宗悦のバーナード・リーチあての英文の手紙

「親愛なるL、何たる事だ!、 僕は何をしているのだ!僕のブレーク の本はどうだ?そう、大切だ。しかし、しかし、、、、、、 ああ、ブレークの幻がまた僕の前に現れる!この偉大なる男は毒だ! 急げ!だが歩みに気をつけろ。 蠍(さそり)より この十四日か十五日の午後、お宅にいてください。そちらに伺います。」

《武者小路実篤のお正月》

大正7年1月14日 志賀直哉に宛てた葉書

「御ハガキ見た、今日は君が帰ることにきめてたのしみにしていたが、がっかりした。 康ちゃんの病気は本物にならずにすむことをのぞんでいる、ろうちゃんの病気も早くなほるといいとおもう、 一日も早く帰ってくるのをのぞんでいる、こっちは皆元気だ、柳は少し風邪気でいる。しかし出あるいている程度だ、 柳には殆ど毎日逢っている。犬養からも君にあって気持ちよかったとよろこんで来た。近い内に逢えると思う。」

《中勘助、瀧井孝作》

中勘助の大正十一年一月五日の「沼のほとり」

「昨夜のうちに沼がすっかりこおった。鴨はみんなどうしたかしら。毎日うららかな日和がつづく。・・・・・・」

瀧井孝作の「我孫子の思いで」

「大正十二年の寒中は雪も消えず沼には氷が張り詰め、僕は氷すべりを思いつき、足駄の歯を抜いてカスガイ金を打ち付けスケートを拵えた。」

二人の記述からは、当時の我孫子は今と違ってかなり寒かったようです。

《杉村楚人冠のお正月》

「世の中が進むにつれて、生活が二重三重になるのは当然のことである。 何も心配することはない。二重三重がいいのだ。西洋室の安楽椅子にふ んぞり返っているのは、いい心地に相違ないが、開け放した縁端に腹ば いながら、日向ぼっこをするのも悪くない。暖炉に火をたいて、その前 に家内中集まってラジオでも聴こうというのに、格別異議を申したつべ き筋もないが、同時に炬燵(こたつ)に寝転んで新聞でも読みながらう とうとするのにも、捨てがたい趣がある。いそいそと立ち働くには、ノ ―フォーク(英国の狩猟ようのジャケット)もよかろうが、くつろぐに はどてらもまた妙だ。 ・・・・ 」

中略

このあと自宅の女中さんにお正月に休みをとらせることについて心配 しますが、三人の女中さんは三人とも、その生まれた村の正月がちがっ て、一人は新暦、一人は旧暦,もう一人は月遅れの正月であったおかげ で、三人がバラバラに休んでくれて助かったことを書いています。

「そこへ出入りの大工が年始に来たのを見ると、下には紺股引に法被と いう姿で、その上に外套を引っかけて頭にはソフトハットをかぶり、足 には霜とけの泥濘が困るとて、オーバーシューズを穿いていた。」 (昭和3年一月)

楚人冠全集より

杉村楚人冠の文章から当時は新暦、旧暦、月遅れと、入り乱れた様相がうかがえますが、 その中でも人の暮らしは、最後に書かれている大工(楚人冠の本棚をつくり、志賀の書斎を建てた佐藤鷹蔵のこと) のように、新旧を取り合わせた智恵に満ちていたのだろうと想像させられます。 因みに、上記の白樺の文人の日記は、みな新暦の記で書かれています。

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写真:講演中のスナップ。左壁には新着のバーナードリーチの掛け軸がかけられている。
左壁に新着のリーチの軸(クリックで拡大

高木さんのお話は、大正時代、我孫子の地にすんだ人々の日記、手紙をとうして当時のこの地のお正月を生き生きと蘇らせるという手法で展開しました。 この日お話の冒頭で、高木さんは「我孫子の歴史を明らかにする事は、白樺の文人たちの作品や人生を理解する上でも重要なことで、白樺の文人のことを生き生きと現代の人々に伝える事で、我孫子の歴史をより豊なものにし、そしてそうしていきたい」とはなされましたが、この言葉に導かれるものはこの白樺文学館の使命にもつながると、実感させられるひと時でした。