90.「我孫子と陶芸」

第35回面白白樺倶楽部開催報告

平成16年4月9日(金)
講師 岩村 守

写真:講師の岩村 守先生
岩村 守 先生

「我孫子窯」を主宰する,陶芸の作家岩村守先生が講師として登場しました。ホームページ、新聞などでこの日の企画を知った熱心な先生のファンは、今までには無い速さで申し込みをされるなど早々に、定員いっぱいとなりました。
白樺文学館の前の道(はけのみち)を西に辿って行きますと「我孫子窯」があります。(手賀沼が埋め立てられる以前、我孫子窯のすぐ前が渡し舟場でした)

写真:我孫子窯入り口
我孫子窯入り口(クリックで拡大

我孫子窯の庭にこぶしの花が咲き、枝垂れ梅が咲くと「春です」と告げられるような思いになるのは、私だけではないと思います。古木で美しいのです。オブジェ風の陶器の門柱、その横にさりげなく『我孫子窯』、それが入り口です。

写真:講演中のスナップ
「ふるさとは我孫子です。」(クリックで拡大

ふるさとは我孫子
岩村先生は京都の生まれですが、一家は1940年我孫子に転居、先生は小、中、と我孫子、都立上野高校を経て、東京芸大美術学部に進まれました。その後,玉川大学で教鞭をとられ、2001年玉川大学教授を退官、現在陶芸作家として活躍されています。父、岩村福之氏と二代に渡る我孫子での陶芸活動を「ふるさとは我孫子です」と表現されました。

新聞記事に観るやきもの
本題の「我孫子と陶芸」の前にと、ごく最近、新聞記事で紹介された美術館とその美術館に所蔵されている、やきものの名称(その読み方)、その解説は今日の参加者をやきものの世界へと誘うものとなりました。

(日経04.4.02)―――執念の逸品味わい深く―――より

白鶴美術館
  • 禾目天目茶碗(のぎめてんもくちゃわん)――中国南宋時
  • 唐三彩鳳首瓶(とうさんさいほうしゅへい)――中国唐時代
  • 白地黒掻落龍文梅瓶(しろじくろかきおとしりゅうもんめいぴん)
    ――中国宋時代
  • 青磁鳳凰耳花生(せいじほうおうみみはないけ)
    ――中国宋時代
藤田美術館
  • 曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)――中国宋時代
  • 交趾大亀香合(こうちおおかめこうごう)――中国宋時代

(日経04.4.05)―――「仁清の茶碗」展、渋い作風に驚き

MOA美術館
  • 色絵藤花文茶壷(いろえふじはなもんちゃつぼ)――江戸時代
  • 色絵金菱文茶碗(いろえきんひしもんちゃわん)――江戸時代
石川県立美術館(金沢市)
  • 色絵雉香炉(いろえきじこうろ)――江戸時代
根津美術館(渋谷区南青山)
  • 色絵結熨斗文茶碗(いろえむすびのしもんちゃわん)―江戸時代
  • 呉器写し茶碗(ごきうつしちゃわん)――江戸時代

など現代のやきものに対するブームともいえる人々の関心の深さを,難解な読み方の解説に加え、写真などを示してやきものの美しさを解説され、 思わず引き込まれる展開でした。岩村先生は「昔のやきもの師と言われた時代は大変な苦労がありましたが、陶芸家といわれる今の時代は極楽です」と、 いまの陶芸ブームの中での恵まれた作陶環境について、述懐されました。

写真:講演中のスナップ
満員の参加者へ熱演(クリックで拡大

続いて、古代から現代にいたる間「工芸」といわれる造形領域が生まれる以前は、生活用具として道具、器具をつくる「ものつくり」であったものが、 やがて「工芸」と呼ばれる素材美、機能美、手わざ美を備えたものをつくる流れとなり、更に内的表現の美を備えた美術へと変化する中で、 岩村先生は「焼きものとはいったいどういうものなのか」、「芸術の中の焼き物は楽しまなきゃいけない」、「人生を楽しむものとして焼き物を捉える」という考えに至り、 その考えは、岩村先生御自身のやきものを「彫刻としての焼き物」へと導いていったとのおはなしでした。
(以下先人についての敬称略)

我孫子は近代陶芸の不思議な磁場
白樺派といわれる人々が我孫子に集まってきた大正の初期、柳宗悦(1889−1961)の住む「三樹荘」にはロダンの作品が飾られていて、その彫刻を見たいがゆえに「三樹荘」を訪れた浅川伯教は、柳の人生の方向を決定するようなこととなる「李朝の壺、秋草文面取壺」を柳に贈り物として手渡していったのです。
柳邸にはバーナード・リーチ(1887−1979)が寄宿して1917年に窯をつくりました。六代目尾形乾山に轆轤(ろくろ)の指導をうけて陶芸に励みます。そして柳、リーチの周りに人々(浜田庄司、富本憲吉、河井寛次郎、、、)が集まる ようになりました。
雑誌「白樺」を中心に展開した大正時代の文芸運動は、後の世界では皆無ともいえる文学、芸術の大きなうねりとなりました。我孫子を中心とした若い、豊かなグループに遭遇した人々は、彼等の生き方に大きな刺激を受けたのです。
リーチは日本からイギリスに帰国しますが、何回も日本にやってきて「東と西のかけはし」となり、各地の窯をめぐり研究や指導にあたりました。岩村先生は小鹿田(おんた)焼きを例に挙げ、ピッチャーの写真を示しながら、スリップウェアー、ハンドル(持ち手)はリーチの影響ですと述べられました。
その後、柳、浜田、河井等を中心に日本民芸協会は展開しますが、彼等には「官展」にかかわらずに作陶するという、潔さがあったのです。
一方で柳は、展覧会(文展―文部省美術展覧会)(農展―農商務省図案及び応用作品展)出品作品をみて、その批評を新聞、雑誌に実名を挙げて発表していたそうです。
この我孫子の陶芸の伝統は、河村蜻山、岩村福之、岩村守へと伝承されてきたのです。

写真:岩村福之作 湯呑 色絵登り窯図
岩村福之作 湯呑 色絵登り窯図(「岩村福之の陶芸」より)
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河村蜻山の陶芸
河村蜻山(1890−1973)は京都生。京都市立陶磁器試験場付属伝習所出身。1913年大正二年に「農展」入選。1915年伏見、深草に築窯。この年岩村福之伝習所入学。同年、浅川伯教、柳邸訪問。1930年蜻山「,帝展」審査員となる。1938年我孫子に築窯。1954年我孫子を去り北鎌倉に築窯。
岩村福之(1903−1998)は蜻山の元で陶芸に励みますが、1962年現在の地に窯を築き、岩村守とともに我孫子の陶芸の伝統をまもってきました。
蜻山の作品は我孫子市役所にもありますが、我孫子市が作った作品集でみることができます。(岩村福之の作品集と共に、河村蜻山の作品集二冊、今回岩村家から白樺文学館に寄贈されました)

写真:作品の説明をする先生
作品の説明(手前花生け講師作)
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これから岩村家二代に渡る我孫子の陶芸のお話となるところでしたが、今回はここまでで、岩村先生には再、再々登場していただいて続きをお話していただくようお願いし、第35回面白白樺倶楽部、終了となりました。
お話のはじめの部分で岩村先生が「私のふるさとは我孫子です」と言われましたが、父岩村福之の作品集に先生の一文があります、その中で先生は「手賀沼の渡舟場のそばに暮しはじめたのが昭和15年でした。 手賀沼の自然の水・空気・湿り・魚・鳥・植物などの中での生活が後年の作陶に大きい要素として影響しています。特に内的要素としても重要だったとおもいます」と、父福之の陶芸人生を分析されていますが、これは同時に御自身の人生への思いではないかとも読み取れたのです。(Y.I)