95.「若き日の芥川龍之介」

第37回面白白樺倶楽部開催報告

平成16年6月11日
講師 庄司達也氏(東京成徳大学人文学部助教授)

芥川龍之介は、短編「あの頃の自分の事」の中で、< 「武者小路氏が 文壇の天窓を を開け放ってさわやかな空気を入れたことを愉快に感じたものだった。」 >
と書いています。今回は庄司先生と旅行をともに(二人きりではない)されるなど、お付き合いの深い杉山欣 也先生から、実証的な資料と綿密な調査で今学界で注目され、活躍中でありますとの、楽しいプロフィール紹介から始まりました。 また最新の研究成 果として日本文学コレクション「芥川龍之介」(共編)のご紹介がありました。

日本文学コレクション 芥川龍之介
席上配布資料は第一部手紙を中心としたB4判4ページ、第2部は7ページ合計11ページ の資料を駆使して、まさに濃密なお話の数々でありました。文字通り興味深く面白い講演の全容を細部に亘りお伝えすることができずに残念です。
以下、今回の報告は庄司先生に書いていただきました。

芥川龍之介は、よく知られているように、東大の仲間たちと『新思潮』(第四次)を刊行し、 その創刊号に載せた「鼻」に対する夏目漱石の激賞により、文壇にその存在を広く知られ、次代を担う新進作家の仲間入りを果たしました。 今回の"面白倶楽部"では、そのような文壇登場の頃に話題を絞り、当時の芥川の文学に寄せた熱い思いについて、 友人などに宛てた書簡を読み進める形で、お話をさせていただきました(以下のまとめは、その要旨です)。

また、芥川は、若き日より芸術全般に対する関心を強く持っていた人です。その関心の有り様は、雑誌『白樺』を窓口の一つとするような処もあり、 多方面に亘っています。その一端を彼の著書(の装幀)、自作の絵ハガキ、仲間との吟行の際に記した「游心帳」などの資料により、 ご紹介させていただきました。そして、白樺派との関係につきましても、一高生時代に雑誌『白樺』編集部に宛てた手紙の下書や、 ハガキの模写、志賀直哉の「沓掛にて」に登場する落款の印影、白樺美術館建設のための芥川による寄付のことなどを中心に、 参加者の皆さまとの話題とさせていただきました。

芥川龍之介は、夏目漱石に見出されて船出したという処から、順風満帆の旅立ちをした若き作家であったと言われます。しかしながら、 その実体は、なかなか大変なものがあったようです。当時(今もそうですが)、 筆一本で自らの生活を支えていくというのはとても困難な時代であります。 一部の特別な存在を除くその多くが生活面での困窮と芸術の創造との狭間に立っていました。 芥川も例外ではありません。彼は、後に妻となる塚本文に宛てて、<僕のやつてゐる商売は 今の日本で  一番金にならない商売です。 その上 僕自身も 碌に金はありません。ですから 生活の程度から云へば 何時までたつても知れたものです。>と綴っています。

若き日の芥川は、職業作家を志す一方で、生活のための基盤を整えねばならなかったのです。家には、年老いた養父母と伯母が居ました。 皆、60歳をこえた老人ばかりです。芥川家の経済的な側面には不明な点も多いのですが、いずれにせよ、 1916(大正5)年の夏に大学を卒業した龍之介にとって、創作活動と就職ということ、そしてそれらを両立させることは、 共に大切なことがらでありました。

1916年の冬、一高の恩師、畔柳都太郎の紹介で横須賀にある海軍機関学校の嘱託教員(英語学教授嘱託)となりました。 約二年後の1919(大正8)年の春に退職することになるのですが、芥川は、ここでの生活を後に<この 二年間は、 予にとつて決して不快な二年間ではない>と記しています。しかしながら、他の文章では、<永 久に不愉快な二重生活>などとも綴っています。 文学一途に精進を続けたいと考えていた芥川にとって、海軍機関学校の教師というものは、麺麭(パン)をもとめるためのものでありました。


庄司先生所蔵の資料
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芥川は、機関学校に勤めていた時に出した友人への手紙の中に、<ボクは相不変本職と副職との間にはさま つてきゆうきゆう云つてゐる>と綴りました。この<本職><副職>ということを、それぞれに<本職>= 教師、<副職>=作家などと捉えて論じるものがありますが、この解釈は誤りと云うべき で、当時の彼の意識に添うならば、<本職>=作家、<副職>=教師とすべき点なのです。芥川にとっては教師というものは永遠に<本職>とは為り得なかったものだったのです。ただし、だからと云って適当な授業ばかりをただ意欲 もなく行っていたのかというとそうではありません。芥川の教え子の証言によれば、熱心なしっかりとした思想を背景に持った芥川の授業により、人生というも のを大いに考えさせられたのだということです。後に芥川の推薦により機関学校でドイツ語を教えることになった内田百閧ノよる回想にも、機関学校側が寄せる 芥川への信頼の厚さが綴られています。

1919年に大阪毎日新聞に入社(出社の義務はない)した芥川は、ようやく文学一途にその生活を送ることが出来る環境を整えることが叶いました。師の夏目 漱石の朝日新聞社入社に倣ったかのような大阪毎日新聞社への入社です。職業作家としての新たな一歩を踏み出したのです。芥川の機関学校での二年間の教師生 活を振り返れば、そこには、教師という職に就いたことで己の時間を多く奪われながらも、創作活動に真っ直ぐに向き合おうとする青年の真摯な姿があり、文学 や芸術に身を賭そうとする者の熱い思いが認められます。文壇への華やかな登場とその後の活躍から、ほどなくして文壇の寵児となった芥川龍之介の若き日に、 このような苦悩の時期があったのです。

(庄司達也記)