96.「志賀直哉とメーテルリンク」

―我孫子から・サン・マルタン・ラーテムまで―

第38回面白白樺倶楽部開催報告

平成16年7月9日
講師 倉智恒夫氏

(川村学園女子大学人間文化学部長 日本文化学部教授

千葉大学名誉教授 日本比較文学会理事・東京支部長)

 倉智恒夫先生
講師の倉智恒夫先生

  志賀直哉の作品に東洋的な安らぎを感じる読者は多いことと思われます。そうしたことからも、志賀は外国文学との関わりから論じられることの少ない作家でし た。
   しかし今回は、志賀が学生時代、「手帳」に書き残したおびただしい数の世紀末文学に関するメモをもとに、新しい志賀直哉像が論じられました。メモに残され た人名、地名を手がかりに、倉智先生が世界各国から長年にわたって収集された資料を用いて、解説された「志賀直哉及び雑誌『白樺』の仲間が西洋文明から受 けた影響について」の 格調高い仮説を、おうかがいしました。
   かの名探偵エルキュール・ポワロの鮮やかな謎解きを聞く思いのする、楽しいひとときでありました。


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芸術村 サン・マルタン・ラーテムの中心部

  以下、倉智先生にまとめていただきました、講演の要約です。


 「志賀直哉とメーテルリンク」という話題には、それほど目新しいものはないかもしれません。志賀直哉は、小説作法上影響を直接受けた内外の作家や作品の 源泉といったものが考えにくい作家ですが、モーリス・メーテルリンクの『智慧(ちえ)と運命』という哲学的随想には感銘を受けたようで、最初のお子さんに 慧子(さとこ)という名前をつけたのも、そのような背景がありました。志賀直哉がメーテルリンクの『智慧と運命』を読んだのは明治40年頃と考えられます が、大正4年から大正12年に至る我孫子時代に書かれた作品には、具体的な細部の借用と か影響とかいう次元ではなく、物の見方考え
楽しさが伝わって
楽しさが伝わって
方さらには感じ方に メーテルリンクとの親近性が感じられ、と言えるでしょう。まことに漠然(ばくぜん)とした言い方ですが、それは臭(におい)いや響きといった微妙な兆(き ざし)のようなものであって、あえて言えば、日常生活のどこにでも潜む死の予兆とか、生き物の運命を支配している超越的な存在の知覚といったものでしょう か。
 しかし、今日のお話させていただくのは、こうした仮説的な借想(しゃく そう)の実証ではなく、ひとつの事実にもとづく仮説のお話です。志賀直哉は、大正 4年の10月に我孫子の手賀沼のほとり、いま「白樺文学館」のあるこの地に家を建て書斎をつくり住み始めました。その前年に柳宗悦と兼子夫人がおり、そこ にバーナード・リーチがやってきて窯を築く、翌年に武者小路実篤が私の川村学
先生の若き親衛隊?
先生の若き親衛隊?
園女子大学にもそう 遠くない船戸(ふなと)の地に家を造り、やがて中勘助が来 る、瀧井孝作もやって来る、というのでひとつの芸術家コロニーが成立します。このことは文学館のみなさまがすでにくわしくお調べになり、またその文化的遺 産をひろくお伝えになろうとしていることで、私が何か付け加える余地はありません。今日は、大冒険をして、我孫子手賀沼のほとりに成立したこの芸術家コロ ニーと遠くヨーロッパの地に成立したある芸術家コロニーとを、魔法の糸で結びつけてしまおうという、まさに仮説のお話をさせていただこうと思うのです。当
ガン市の風景
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ガン市の風景
時ヨーロッパにもいくつかの芸術家のコロニーが存在しておりました。ドイツではホルプスヴェーデは有名でしたし、フランスでは日本人画家も滞在していた セーヌ支流ロワン川沿いのグレー村のこともよく知られていました。しかしそのひとつにベルギーはガン市の近傍(きんぼう)サン・マルタン・ラー テム(写真2)と いう芸術家村があったことはあまり知られていないか
サン・マルタン・ラーテム入口
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サン・マルタン・ラーテム入口
もしれません。このサン・マ ルタン・ラーテムと我孫子をなんとか結びつけようというのですが、その手が かりをまず志賀直哉の方から探ってみることにしましょう。先ほど申しましたように志賀直哉はその他の作家や作品の影響を受けることのもっとも少ない作家と されていますが、学習院高等部から東大在学中の『日記』や『手帳』によりますと、おびただしい数の外国の書物・画集を購入し、また読んでいます、目にして います。そのなかにはイプセンやトルストイ、モーパッサン、ストリンドベルリ、マックス・ノルダウなど、当時盛んに読まれていたヨーロッパ世紀末の作家や 作品が沢山含まれています。メーテルリンクもそのひとりです。ところでそうした名前を書き出して見ます
ムーニエ「この人を見よ」
ムーニエ「この人を見よ」
と、そこにはムーニエとかヴィールツとかカミーユ・ ルモーニエとか、はっとするような名前が含まれているのです。そこでこれらの不思議な名前をたどっていくと、その先にメーテルリンクを代表的なひとりとす るベルギー象徴派の面々が浮かんでくるというわけです。最初のムーニエはコンスタンタン・ムーニエという彫刻家ですが、志賀直哉はなぜこの名を知っていた か。それはロダンと関係があります。雑誌『白樺』がロダンの生誕70年を祝ってやがて 特集号を組む、そのきっかけとなったThe World Works誌のロダン特集号の次の号がムーニエ特集号だったからです。ムーニエはロダンとも近い関係にあったベルギーの代表的な彫 刻家で、 とくに貧しい労働者の姿を題材に優れた作品を残しています。そして志賀直哉の書いたものにはその名前は出てきま
ジョルジュ・ミンヌ「男の頭部」
ジョルジュ・ミンヌ「男の頭部」
せんが、ムーニエと関わりの深いジョルジュ・ミンヌという彫刻家もいます。メーテルリンクのもっとも親しい友人の一人で、メーテルリンクが彼に 自作『マレーヌ姫』を読んで聴かせるときには、 その周辺にグレゴワール・ル・ロワとか、若きベルギー派の作家芸術家グループの人たちが耳を傾けていたと言われます。メーテルリンクのミンヌに ついての 回想によれば「彼は20歳だった。彼はそれまで何か見ると言うこともなかったし、読むと言うこともなかった。話すと言うこともなかった。呟(つぶや)いて いるだけだった。何か自分ひとりだけに見えることについて、たえず物静かに微笑んでいた。われわれはそういう彼
ジョルジュ・ミンヌ「二人の子供と悲しみにくれる母」
ジョルジュ・ミンヌ
「二人の子供と悲しみにくれる母」
を友情をもって眺めていた。そして尊敬もし ていた」と語っています。ミンヌの『死せるわが子を悲しむ母』や『二人の子供と悲しみに暮れる母』などの作品は、死の予兆や過酷な運命的力の表現という点 でメーテルリンクの『室内』『タンタジルの死』『闖入者(ちんにゅうしゃ)』と通底するものがあります。アントワーヌ・ヴィールツは前期ベルギー象徴派と いうべきですが、志賀直哉が明治39年の「手帳」に記している「ヴィールツ美術館」は、現在もブリュッセルの欧州連合議会の建物の傍にひっそりと立ってい ます。中に入ると壁面を飾る巨大なタブローに圧倒されますが、ここではその話は省略しましょう。ルモーニエというベルギー象徴派の代表的な一人についても とばします。そのミンヌがガン市の近傍リース(フラマン語でレイエ)川の畔にヴォスティーン、スメート、クラウスなど何人かの芸術家たちと作り上げていた
ヴィラリース川
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リース川沿いのヴィラ
のが、サン・マルタン・ラーテムの芸術家コロニーです。ここまでですと何の糸でも結ばれていなかった、となってしまいますが、その仲間の一人に日本人の画 家がいたとしたらどうでしょう。誰かというとあの大原美術館の作品を収拾した児島虎二郎です。東京美術学校時代の同級生太田喜二郎もいたはずです。とくに 児島虎二郎は1909年から1912年までガン美術学校に在学し、とくにサン・マルタン・ラーテム派のひとりエミール・クラウスに師事し、優等賞を受賞し て卒業します。その児島虎二郎が、『白樺』第二巻第二号には「ガン市より」という一文を寄せているのです。そこにはサン・マルタン・ラーテムの名こそあげ ていませんが、川岸の寓居から見下ろす風景には、わずかながらそのよすがを伝えてきています。逆に児島虎二郎が師事したエミール・クラウス側の資料には、 児島も太田もちゃんと記されていて、児島がラーテムの近くアスティーヌに住むクラウスの門を敲(たた)いたときの様子が、ヴォスティーンの回想 として語られ ています。以上が志賀直哉の日記や手帳の片々たるメモから見えてくる風景
講演後、図書室でくつろぐ
楽しいティータイム
です。このことから我孫子手賀沼湖畔の白樺派コロニーとガン市のサン・マルタ ン・ラーテム芸術家コロニーとを太い糸で結びつけることは出来ませんが、水のある自然とエコロジカルな生活と深く沈潜(ちんせん)する芸術的創造というマ クロの眼をもって観察するとき、この二つの集合の間には美しい水脈が通じているように、私には思えるのです。

参考:ブリュッセル王立近代美術館所蔵の数多くのムーニエ、ミンネの作品、ガン市近代美術館の「サン・マルタン・ラーテム派特別室」の大作品群、サン・マ ルタン・ラーテムのスメート美術館、デインツ美術館等、レイエ地区美術館



(倉智恒夫記)