102.「父柳宗悦と母兼子の思い出」第二回企画展記念講演会
(第40回面白白樺倶楽部開催報告)

平成16年9月10日
講師 柳宗民氏(園芸家)
会場 アビスタ大ホール


熱弁中のの柳宗民氏 (クリックで拡大
「柳宗悦・兼子夫妻我孫子転居90年展」開催記念連続講演会シリーズの第一回は、柳夫妻の4男、園芸家の柳宗民さんにご両親の思い出のあれこれをおうかがいすることといたしました。
宗民さんは、我孫子で幼少期を過ごされた長男宗理氏、次男宗玄氏とは異なり、昭和2年京都市のお生まれです。
講演会当日午前中は、NHK総合テレビ「趣味の園芸Q&A」の生番組に出演のあと、休む間も無くその足で我孫子にお越しくださいました。
駅到着後の第一声は「半世紀振りの我孫子です!」と感慨深そうにお話されました。

満席の会場 (クリックで拡大
第二回企画展の幕開けの日にあわせて開催された連続講演会は、講師の高い知名度もあって、予約受け付けの当初から大変な人気で、会場は満員、開会前のロビーではサインを求められたり、「記念撮影をぜひ」とカメラを向けられたりでしたが、宗民氏は終始にこやかに応えておられました。
「私は柳宗悦、兼子の四男末っ子の柳宗民です。末っ子の自分が親父、お袋の思い出を語るというのはなんだかくすぐったいし、おこがましいと思ったのですが・・・」と会場を満員に埋めた150数人のお客様へ向けて、お話は始まりました。
以下講演の概略です。

「手賀沼は実に静かに横たわっている。」というのが半世紀前の手賀沼の印象であったこと。このたび訪れた久しぶりの手賀沼は、沼べりの傾斜地の森にあの頃の面影が残っているようにみえる。
「民藝」という言葉は民間の工藝の意味で、当時宗悦は濱田庄司、河井寛次郎と連れ立って日本中を歩き回り、名も無い人々が日常の使用の為につくった陶磁器、木工品、織物などを集めていた。それらの品々が日本民藝館に集められていったのだが、父宗悦はほとんど家にいなかった。この民藝運動草創の頃生まれた自分に民藝運動の民の字を入れた「宗民」という名前がつけられた。
父宗悦は晩年脳梗塞で倒れてから、「偈」(げ)という面白い言葉を書いて、方々のかたがたにさし上げていて、自分も父からもらった。「ふきのとう 微笑む 雪をかざして」と書いてあり、自分に対して「しっかりやれ」と励ましてくれているのだと思い、軸にして大切にしていた。小平の家が火事になり家は全焼、燃え残った箪笥の最下段にこの軸だけが燃えずに残っていた。父との縁を思い、今も大切に持っている。
母兼子は、野菜つくりが実にうまかった。戦時中野菜を民芸館の庭で作っていたが、その傍らで花も咲かせていた。花つくりが国賊扱いされた殺伐とした時代であったが、母の咲かせた花々は、近くを行進する兵隊さんたちを感動させ、喜ばせた。末っ子の自分はいつも母の土いじりを手伝っていた。このことも、自分が園芸の道に進むきっかけになったように思える。大学へ行けば学徒動員にとられてしまう時代、母は「農事試験場」へいくことを理解し、応援してくれた。幼少の頃は昆虫少年だった自分が園芸の道に進み、自然の事象が大好きになり、植物に興味を持ち、気が付いたら自然との付き合い方がわかってきていた。
父宗悦はグルメであった。台所に出てくるわけではなかったが、年一、二回高等遊戯と称してシュー・クリームを作ってくれて、その手伝いを自分がさせられた。一方親父から仏教思想を教えられ、人間の理想的な在り方は自然体であること、「無」の精神であることの重要性を説かれた。それは父の著作を読むことから導かれた。父は新しい本が出ると、必ずこれを「読みなさい」といって渡してくれた。
母は、父亡き後父の写真をいつも居間に飾って晩年を過ごし、心の中で父を愛して入る姿は、「夫婦っていいものだ」と思わせられたものであった。この母がいなかったら父は成り立たなかった。明治の女性で、母は芯の強さを持っていた。84歳までリサイタルを開き、90歳過ぎまで歌いつづけた母は、「90歳でも歌える秘訣は?」の問いに、「今の人は人気が出るとつい喉を酷使してしまう。私は節制しましたからね。」と言っていて晩年もほとんど声量の落ちることは無かった。

会場で大人気の「雑草ノオト」(宗民氏の著書)
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「この母には今も頭が上がりません,親を越せないでいます。」
「父と母は偉大でした、これが子供の素直な気持ちです。」
と語って、宗民氏はお話を終えられました。宗民氏はテレビの画面での柔和なお顔そのままで、昔を懐かしむような穏やかな語り口に、引き込まれるひと時でした。

(石曽根四方枝)