105.第二回企画展
「柳宗悦・兼子夫妻我孫子転居90年展」
記念連続講演会の第三回
「柳民藝美学発祥の地・我孫子」

2004年11月12日(金) 18時30分より
講師 日本民藝館学芸員 尾久彰三氏
会場 アビスタミニホール


尾久彰三先生(クリックで拡大

白樺文学館の第二回企画展「柳宗悦・兼子夫妻我孫子転居90年展」記念連続講演会の第3回目(第42回面白白樺倶楽部)は、日本民藝館の学芸員,尾久彰三氏をお迎えしました。 尾久先生は第28回(平成15年9月12日)面白白樺倶楽部、「李朝の工藝と柳宗悦」で大変興味深いお話をされ今回二回目の御登場です。今回は「柳民藝美学発祥の地・我孫子」です。この日「アビスタ」の中ホールは定員オーバーとなり、そのうちの半数近くは、連続 講演会を三回全部参加された方々でした。(以下講演の概略です)

『土徳(どとく)』

「土徳」とはその土地のもつ、人々に与えるよい力の意味で、例えばある地を旅したとき、思いがけずその地の人に一杯のお茶を振舞われたとき、これも「土徳」をいただいたといえるのですが,この地、我孫子には大きな「土徳」があるのです。
この「土徳」が白樺の人々をこの地によび、柳さんの思索を更なる高みへと導いたに違いありません。柳さんの「民藝」の始まりは,ロダンから送られてきた3つの作品から始まったともいえます。


柳宅に保管中の3体のうちの一つ
「或る小さき影」ロダン 1885
大原美術館(クリックで拡大


李朝染付草花文瓢型瓶(クリックで拡大
日本民藝館
ロダンの3つの作品は白樺同人のいえいえを巡回して後,この我孫子の柳宅に預けられていました。当時彫刻家を目指していた淺川伯教は,そのロダンを見たい一心で柳宅をたずねてきたのです。このときお土産として携えてきたのが「李朝染付草花文瓢型瓶」でしたが、この朝鮮の古陶磁をあかず眺めた柳さんは大きな啓示を得、それが後の民藝美学に対する考えの始まりとなりました。
なんということもなく見過ごしてしまう陶器などの形状が、自然を見るときの端緒となったのです。(大正3年9月のこと、柳夫妻が我孫子に転居してまもなくのことでした)

『万有神論』

この頃柳さんは「自然は内在せる神の出現の啓示である」というロッジの言葉に導かれて、 深い思索の時を過ごし、苦悩に満ちた日々の中トランス状態になりながらも「自然をみて美しいと感動する、そういう思いをもった瞬間、そこから神が出現する」やがて「あらゆるものに神は宿る、その神を見ることが重要」という境地に到達。
(ここで尾久先生は「ここでいう神は美と置き換えたらいいと思います」と解説されました。)
「あらゆるものに美は宿る」。この考え「万有神論」はすでに明治43年の雑誌「白樺」(第1巻、第6号・第7号)の「新しき科学」に発表されました。柳さん21歳の論文でした。その後柳さんはウィリアム・ブレイクの研究、神秘思想を深め、宇宙のエネルギーを神と定めて「万有神論」を論理的に強固なものとしていったのです。柳宗悦思想の出発の根幹は「神」であったのです。
私たちは神や仏の前で、「ああなりたい、こうなりたい」と、お願いばかりしますが、本来神へのお参りは、まず感謝であるべきでしょう。今ある自分、この存在をもたらしてくれているなんだかわからない宇宙のエネルギー様に、感謝することが、お寺や教会へお参りすることの本来の意味なのだと思います。これが柳さんの言われる神であろうと思います。物を見て何をみているか、それはその物のもつ美を見ているわけで、その美が人々に心の平安をもたらす、この心の平安をもたらす美こそ「神」である。この考えは「名もない民衆の作るものに美がある」という思想につながっていきます。
このような柳さんの考え方、思想の根幹は全て我孫子の時代に確立され、それは大正4年から大正8年のこの地、我孫子でのことであったのです。

『我孫子の「土徳」』

我孫子には「土徳」があったのです。
(尾久先生は我孫子の自然、美しかった手賀沼が優れた先人たちに大きな力を与えたことを強調されました。)
最後に「偽(ぎ)ディオ二シウス(5世紀シリアの修道僧の言葉)」を引用されました。

「全ての知識の停止によって人は不可知の当体に結ばれるのである。
何事も知らずして、しかも心を超えて全てを知るのである。」

大正7年9月から12月の柳の論考『種々なる宗教的否定』の中の引用文です。
これは集約して言えば『何事も知らない状況で、しかも心を超えて神と面接する』『この状況は、美を見ているときの感動、神を見て感動しているときと同じ状況』といえます。 神を失った我々が、その神に成り代わった物として美を獲得したといえるのではないか、柳さんは神に代わる、「美」を実感したのです。
この論考のあと柳さんはこの種の著作はやっていません。この論考の証明としてその後、日本、朝鮮で美しいものの蒐集をしつづけたのです。
この柳民藝美学の根幹になる思想は、我孫子に住んでいる時に確立されたのです。我孫子には「土徳」があるのです。柳さんは大正10年我孫子を去るとき雑誌「白樺」の第12年4月号の「我孫子から」で次のように書いています。

『七年近くもいたこの我孫子に対して、今更に愛着を感じている。(中略)思い出してもここへ来て自然とどれだけ親しい間柄になったかを感謝せずに入られない。静かな音もない沼の景色は自分の心を育んでくれた。沼の上にふり続く雨も、時としては自然の美しい、なくてはならぬ諧調に思えた。月の沼も又となく美しい。私は床につく時間を幾度か延ばした。空の色が変わるとともに、沼の水も一時として同じ色がなかった。画家でない自分でもしばしば次の日の天候を待った。天候は自然を変化し、人の心を変化し、つづいて一家の気持ちを変えた。夕方日が沈みかけ、空が紅色に染まる頃、沼越しに富士山を幾度見たかわからない。(中略)我々は平和なこの我孫子を愛した。特に東京に行って労れる時や、また他所での滞在が続く時、いつも早くここに帰りたい気持ちを誘った。今でも自分はここを離れる事に不安を感じている。(中略)ここが長い間の仕事場として忘れ難い記憶を我々に与える。武者は我孫子で短い間に四、五冊の本を出したろう。リーチも恐らく七度程本窯を焼いた。志賀は今度の「荒絹」が多分三冊目だろう。自分も三冊の本を出した。思想の暗示やその発展に、自分はどれだけこの我孫子の自然や生活に負うたことであろう。静かな物寂しい沼の景色は、自分の東洋の血に適ひ、また東洋の思想を育てるに応はしかったと自分は思う。(以下略)』

柳さんが書いているように、我孫子には「土徳」があるのです。私はそういう我孫子に住んでいる皆さんのことがうらやましいです。ですから柳さんゆかりの白樺文学館を盛りたてて、日本国家を盛りたてて、地球を盛りたてて、全宇宙を盛りたてて死んでいきましよう。(会場は不可知な美しい笑いに包まれました)

第二回企画展連続講演会で、講師の先生方はそれぞれのお立場から柳宗悦・兼子夫妻を生き生きと語って下さいました。これらの講演を通じて「白樺文人はなぜ手賀沼にきたのか」という疑問にも答えをいただけたような気がします。

柳宗悦の我孫子についての記述は

  • 「白樺」第5巻12号(大正3年12月)
    我孫子から通信一
  • 「白樺」第6巻9号(大正4年9月)
    我孫子通信二
  • 「白樺」第12巻4号(大正10年4月)
    我孫子から

に掲載されており、当館開催中の第二回企画展「柳宗悦・兼子夫妻我孫子転居90年展」で、この三点(要約したもの)も展示中です。

(石曽根四方枝)