121. 第49回面白白樺倶楽部報告

「石川啄木と小林多喜二」

講師 碓田のぼる氏 (新日本歌人協会全国幹事)
期日 2005年5月13日(金)18時30分より
場所 当館コミュニテールーム

碓田先生
碓田先生
今回の面白倶楽部は日本人であれば誰でも知っている著名な人物、「石川啄木と小林多喜二」です。しかし、そのつながりはと問われても、なかなか思いつきません。啄木研究家である碓田のぼる先生が『小樽』というキーワードとともに二人の意外なつながりを、そして普段はふれることがあまりない啄木のエピソードを、お話してくださいました。以下は、学芸員実習の実務研修として、実習生の田中彬子がまとめました。

多喜二と啄木の共通項〜小樽をめぐって

三人それぞれの二月二十日
三人それぞれの二月二十日
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二人の共通点として東北の寒村生まれであること、社会の不正に目をむけ時代を撃とうとしたこと、そして北海道(特に小樽)を舞台にして活躍したことをあげられます。このほかに、啄木が生まれた日(1886.2.20)と多喜二が亡くなった日(1933.2.20)が同じ2月20日であること(また、やはり多喜二と関係があった白樺派の代表作家志賀直哉の誕生日も2月20日です)もあげられ、偶然のひとことで片付けられない奇縁を感じます。その中でも最も顕著な共通項としてあげられたのが、小樽に住んでいたことです。啄木は明治40年(1907)9月に小樽へ住み、そしてその翌年の1月半ばに釧路へ移動しました。多喜二は明治40年(1907)12月に家族とともに小樽へ引っ越してきました。正確な日数はわかりませんが、少なくとも20日間は、二人は小樽の空を共有していたことになります。もちろんこの間直接、何かかかわりがあったという事実は特にありませんが、同じ地にわずかであるとはいえ同じ期間住んでいたというのは同じ環境の下、共有する何かが育まれたのではないかと思わずにはいられません。また、啄木が社会主義に対して態度を大きく変化させたのもこの小樽の地でした。明治41年1月4日に小樽で行われた演説会、啄木はこれによって社会主義に対して反感から理解を示すようになり、やがて研究のため上京することになります。その演説会で説かれていた「普通選挙法」は多喜二の時代に実現され、この最初の選挙戦の様子は「東倶知安行」で知ることが出来ます。

啄木の思想と文学の発展

荻原碌山作 『文覚』
荻原碌山作 『文覚』
東京に出た啄木は物心共に貧窮中の明治41年10月、上野で行われた文部省展覧会(文展)で荻原碌山の作品『文覚』(もんがく)と出会います。元武士である『文覚』の隆々とした身体表現に、啄木は大きな感動をうけました。

そして朝日新聞の校正係という職につきますが、その給与を北海道に住む家族には送らず、浅草などで浪費してしまいました。家族としてはたまったものではなかったのでしょう。それで、明治42年(1909)には家族が上京を強行してきます。

しばらくして、いろいろと苦労が絶えなかった妻が家出するという大事件が起こります。自分がどれだけ好き勝手なことをやっても、妻は自分についてくるものと思い込んで、いささかの疑いを持たなかった啄木でしたが、この思いがけない妻の反乱は啄木に大きな衝撃を受けます。結局20日あまりで妻が謝る形で帰ってきましたが、このことが啄木の思想に大きな転機をもたらしました。それは「生活の発見」です。

それまでの啄木は生活を入れずに歌や詩を作っていました。しかし、生活とは何なのかという疑問が深まり、それを突き詰めていくうちに社会的矛盾や国家の問題にぶち当たります。この年の文展にも啄木は訪れ、荻原碌山の作品に再び対面します。その彫刻は『労働者』。彫刻のすばらしさに励まされたのはもちろん、そのモチーフ自体にも何ら思うところはあったのではないでしょうか。

荻原碌山作 『労働者』
荻原碌山作 『労働者』
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そして、翌明治43年(1910)、『啄木、奇跡の一年』とも呼ばれるこの年、さまざまな事が起こりました。雑誌『白樺』創刊もこの年です。社会主義者らが処刑された大逆事件、柳宗悦が激しく批判した日韓併合によって啄木の国家への考えは大きく飛躍します。それはあの有名な「はたらけど…」の歌を含む歌稿ノートに記され、やがてこの年の9月9日『創作』にて「九月の夜の不平」34首が現れます。
第48回面白白樺倶楽部資料 PDF形式

「革命」や「秋水」、「朝鮮」などの語を含み、かなり直接的に当時の状況を嘆き、訴えていました。しかし、その年の12月の歌集『一握の砂』にはそういった歌は含まれず、含まれているものは改作されてそういった出来事を感じさせてないようになっています。これはそのような歌を入れると発禁になるとわかっていたからです。ここに啄木の葛藤と機微が感じられます。そのほかにもこの年は啄木が一番良い作品を残し、様々な質の高い作品が残されました。「時代閉塞の現状」というまさにその当時を物語る評論もその一つです。

多喜二の啄木理解

多喜二は啄木を好んでおり、歌をよく読みこんでいます。それをあらわすエピソードがあります。多喜二は恋人である田口タキに「よい歌だから覚えなさい」と○印をつけた啄木歌集『一握の砂』を贈ったそうです。この歌集には制作年代は付されていないのですが、啄木自身が「これぞ我が歌」とした明治43年作(正確にはその83%をさした言葉だそうですが)の歌から85%に〇印がつけられていたそうです。これにはとても驚きます。

啄木の作品に「はてしなき議論の後」という労働者を主人公とした作があります。まるで多喜二を主人公としたような作品です。もちろん多喜二が実際に活動する前の時代にかかれたものですから、どうしてこうまでも共感するのか。それは志を同じくするものだから、なのかもしれません。

荻原碌山作 『女』 (左側)
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ちなみに明治43年の展覧会も行われたそうですが、碌山が4月に逝去したことを受けて10月に遺作展が行われ、「女」という作品が展示されました。しかし、啄木はこの年忙しく、評判は聞けども見に行けなかったため、残念ながら碌山作との3度目の遭遇はありませんでした。

その後の啄木と時代 「新しき明日」の歌をめぐって

明治44年(1911)啄木は朝日歌壇の選者となります。その推薦をしたのが、我孫子に縁のある杉村楚人冠です。そのことを知った啄木は3通のお礼状を送っています。個々の事情、人間性などの事情はかなり異なるとしても、先輩後輩、あるいは師弟関係という意味では、多喜二と志賀の関係にもたとえられるようなお互いの仕事を認め合う関係だったのではないでしょうか。


改めて知る二人の関係
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明治44年12月末から45年2月にかけて都電のストライキが起こり、労働条件の改善要求を実現させた争議がありました。それを受けて45年(1912)の啄木の日記には「多数は力なり、国民が団結すれば勝つ」ということを確信した旨が記されていました。明治43年に「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど・・・」という歌が作られました。この末尾に「・・・」とされている箇所があって、その解釈が様々あるそうです。その一説に啄木絶望説があります。しかしそれには異論があります。明治43年のこの時点では「いや、どうしたらできる?」という疑問、そしてその2年後の45年では上記のように「団結すれば勝つ」という確信をもったのだという解釈です。私はこれに大きくうなずきたいと思います。閉塞した時代にあって、自分の作品を書き残してきた啄木だからこそ、どう動けばよいかを試行錯誤してきたのではないでしょうか。

この時代の中で啄木は社会主義思想を「表現」しました。しかし、啄木は「行動」することはできませんでした。しかし、その次の時代を生きた多喜二は「表現者」であり、「実践者」でもありました。この多喜二の「行動」の背景には少なからず先人である啄木の影響があったのではないでしょうか。

講演を聞き、今回は学校では決して教えてくれない、石川啄木が見えたと思いました。そしてやはり今までのイメージを覆す作品に触れることができて、新たな啄木像、そして多喜二像を自分の中に描くことができました。また一方で信州白樺派の戸倉事件や志賀と多喜二についても触れていただいて、ますます白樺派に関して興味を抱きました。今回述べられたことは氷山のほんの一角に過ぎないことだと思います。これを機にいろいろと調べたり、作品に触れたりしたいと思います。すばらしい講演をしていただいた碓田のぼる先生に改めて御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
(東洋大学学芸員実習生 田中彬子)