126. 「柳 宗悦と朝鮮」

第50回面白白樺倶楽部開催報告

講師 柳 尚熙(りゅうさんひ)氏(二松学舎大学名誉教授)
期日 2005年7月8日(金)18時30分より
場所 当館コミュニテールーム

講演する柳先生
講演する柳先生
第50回面白白樺倶楽部は、この春、二松学舎大学を定年退官され同学名誉教授として引き続き活躍中の柳 尚熙(りゅうさんひ)先生に同姓の柳宗悦と先生の母国韓国についておうかがいいたしました。当日は先生の勉強会でのおなじみさん、あるいは母国のご友人などでさながら日韓友好の面白倶楽部ということになりました。講演会に引き続き貴重なビデオ(45分)「韓国人の心」――幻の青(青磁)と心の白(白磁)――を鑑賞し、当日の講演を終えられました。以下は柳先生がまとめられた講演の概要です。

今日我孫子の駅に降りると駅広場に白樺同人の記念碑がすぐ目に付きました。柳宗悦を中心に文化人たちの姿でした。この町は文化人の町だなあと思いつつこの文化の町で講演をすることは私としては非常に感慨無量で光栄なことだと思いながら白樺文学館に足を運びました。

1914年(大正3年)25歳の柳宗悦は中島兼子と結婚してこの我孫子に新居を構えますが次の年の1915年(大正4年)、今から言えば90年前の26歳の柳は初めて朝鮮に旅立ったのであります。なぜ柳は新婚早々、朝鮮の旅を選んだのか、そして生涯21回程朝鮮を旅したのはなぜか、ということにフォーカスを当てて話を進めていきたいのです。

柳宗悦の二歳年下の妹、千枝子が柳の朝鮮旅行の4年前である1911年(明治44年)に結婚をしていました。結婚2年後の1913年には朝鮮総督府事務官である今村武志と京城(今のソウル)に住んでいたことがその理由の一つだろうと思います。その次は1914年の秋朝鮮から淺川伯教が我孫子の柳家を訪れお土産に持参した朝鮮白磁の美術工芸品に関する意見交換があったことが第二の動機となったのでしょう。

柳宗悦の第一回の旅行の4年後、当時朝鮮では「三・一独立」運動が起きますが、これを終始見つめていた柳宗悦は「朝鮮人を想ふ」と題する文章を書いて、1919年5月20日から24日にかけて『読売新聞』に連載発表します。柳は「誰も不幸な朝鮮の人々を公に弁護する人がいないのを見て急ぎ書いたのである。これが朝鮮に就いて書いた最初のものであった」と後に説明しています。

この文章が英文に訳され翌年4月12日より朝鮮語訳になって『東亜日報』に掲載されました。(『東亜日報』の記者で小説家である廉想渉が訳したもの)これが朝鮮では大反響を起こした記事で、このような日本人もいるのかと驚いたというのであります。その『朝鮮人を想ふ』の内容に「自分は朝鮮に就いて充分な予備知識を持っていないが、わずかに根拠があれば 1.一ヶ月間朝鮮の各地を巡歴した事 2.旅立つ前、朝鮮史を読んだ事 3.その国の芸術に厚い欽慕の情を持っている事。以上三つの事実からだといっています。

「今度の不幸な出来事が起こったため私にこの筆を執らせたのである」と。「私は想う、或国の者が他国を理解する最も深い道は科学や政治上の知識ではなく宗教や芸術的な内面の理解であると思う。言い換えれば経済や法律の知識が我々を他の国の心へ導くのではなくして、純な愛情に基く理解が最も深くその国を内より味わしめるのであると考えている。」「我々日本人が今、朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。恐らく義憤好きな我々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう。(中略)日本は朝鮮を治めようとして軍人を送り政治家を送った」「朝鮮の人々よ 私の国の識者の凡てが御身等をののしり、また御身等を苦しめる事があっても、彼等の中にこの一文を書いた者のいる事を知ってほしい。否私のみならず私の愛する凡ての私の知友は同じ愛情を御身等に感じていることを知ってほしい」と。このように柳の朝鮮に就いて書いた最初のものでその信念をつらぬくために抑圧された民族に同情を寄せた文章でありました。

講演に集中して
講演に集中して
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次は朝鮮総督府の新庁舎を建てるために邪魔である「光化門」が取り壊されることになり、これに反対して柳宗悦は1922年「改造」9月号に『失われんとする朝鮮建築の為に』と題する文章を発表します。「一つの芸術の失われんとする運命に対する追惜と、王宮の正門であるあの壮大な光化門が取り壊されることについて、東洋古建築の破壊に対して胸を締め付けられる想いを感じている」と、嘆く柳宗悦の文章でありました。

また柳の『朝鮮の美術』の本に書かれた思想は 1.「それが朝鮮の人であると日本人の人であるとを問わず、この小さな情愛を以って書かれた本から真理の水を汲み取ってくれ」という願いの言葉からはじまり、 2.芸術は国境を越えて我々の心を潤してくれる。芸術の国に於いては凡てが兄弟である。時と処を超えた真理を見出してくれるのが芸術である。 3.東洋に固く結ばれる平和を願う。結合と征服による統一とを混同してはならない。相互の愛が結合の基礎である 4.文学運動によって人道主義の思想を持っている。これは自我解放運動ともいえるヒューマニズム的な思いでもありました。同時にジャーナリスト的な文章家でもありました。 5.理想主義的な影があって柳宗悦の眼はつねに「美」とともに生きる人間の生活という基本的なものに向けられた審美眼の持ち主であったともいえます。 6.民藝運動の指導者であり蒐集家でもありました。以上のように柳の民藝運動に開眼したきっかけは朝鮮の美術工芸、とりわけ白磁の美の発見から来ているということが出来ます。

それでは柳はなぜ朝鮮白磁だったのか、なぜ韓民族の美と結びついたのか、それは偶然なのか、必然的な経験だったのか、これは柳の大きな研究課題でもありました。柳は「日本的な美のふるさとはその昔いい悪いという価値判断は別として、朝鮮半島から多くのものを得ているからであろう」といっています。「本来人種的にも地理的にも近い血縁の間である日本と朝鮮とはもっと心から友であってよいと思うのである」とも書いているのです。

以上をまとめて見たら「情愛」「真理」「国境を越えて」「兄弟」「東洋に平和を」「相互の愛」「審美眼」「民藝運動」「近い血縁」「友」このような考えを持って生きて来た方であります。日本の同胞たちに「剣にてたつものは剣にて亡びる」「軍国主義を早く放棄しよう」「弱者を虐げることは日本の名誉にはならない。他人を卑下することに何の誇りがあろう。愛する友を持つことは我々の名誉だ」「弱者に対する優越の快感は動物に一任して私たちは人間らしく活きようではないか、自らの自由を尊重するとともに他人の自由を尊重しよう。もしもこの人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだろう」このような思想を持った柳の偉大さを深く尊敬するものであります。日本を「理」の国とすれば朝鮮は「情」の国ともいえます。柳はこの情の国を信じていたのです。情が清らかであるならば、交わ得る心と心とがあることを信じていたに違いないのです。柳は情に活きる心に対して憎しみ持つ友の無い事を信じていました。柳は「情愛」による結合がこの世に可能であることを信じた一人であり、日本が政治や軍隊によって代表された日本であると思われる事を非常に残念に考えていました。日本人と朝鮮人とが信頼し合う真の友情、真の平和を思った柳であったのです。柳は音楽会、講演会とか、藝術を通して日本と朝鮮を結ばせる一つの温かい道であると考えたに違いありません。そして隣国の民族の文化を守るためにみずからのペンでもって闘い軍国主義という表現の自由がないおそろしい時代に学者として、宗教家として、美学者、哲学者として、日本人としての良心をかけて行動したに違いないのです。柳宗悦という人物があの時代に活きていたことが恐らく奇跡に近いできごとでありましょう。そしてつねに「美」と「平和」と共に生きる人間の生活という基本的なものに向けられていたのでした。

朝鮮を心から愛した柳宗悦は
朝鮮を心から愛した柳宗悦は
多くの旅の中で、妹、千枝子の死(30歳)に母と共に海を越えて朝鮮に渡る柳の心の痛みは、1921年10月号〈白樺〉に『妹の思い出』と題して載っています。以後1937年(昭和12年)5月2日より16日まで全羅道の長い間の憧れの旅を目的を持って足を運び、「朝鮮はいつ来てもすがすがしい、大きな悦びがある」といっています。
紙、竹細工、麻布、茶碗、櫛、扇、竹籠、鉄金具、木工品、陶器、石器、硯、墨、小刀、仏器、銅鑼、かめ(甕)壷、徳利、等朝鮮の市日の風物を見ながらみやげ物を探して廻っていたのでしょう。

「一国の文化をその自然や風土からまったく分けて考えることは出来ない。人情も風俗も、習性もまた工芸も建築も衣服も器具も、山も河も木も花もすべて一個の離れ得ない有機体であろう。」「朝鮮の美は愛に満ち愛に飢える美である。」「人情は知識よりも真理の理解者である。」と韓国の美術の特性、特長に対して最初に比較的体系化された見解を述べた人が柳宗悦であり、『朝鮮とその芸術』の序文によく現れています。

高次元の「友情の韓流」
高次元の「友情の韓流」
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今日までお互いが隣国でありながら政治の行いが、日本と朝鮮とを近づけない永遠の『反感』がその労力の報酬となってきたのです。多くの者が隣国の政治に努力しています。だが多くの人たちは、一度だにその国の心を暖めなかったようであります。そのとき柳宗悦は情の国を信じて「心と心」「美と美」の友情で「情愛による結合がこの世に可能であることを信じた一人でありました。政治には愛がない、しかし幸は世界にあることを信じていた人であった柳宗悦は当時、領土や権力よりも民主の思想や神の問題、そして真の平和の意味に注がれていることを誰よりも知っている人でありました。

今の「韓流」のはるか90年前に、柳宗悦はすでに一人で高い次元において隣国の「友情と韓流」を実行してきた偉大な人道主義者として活躍していたということを特に強調してお伝えし、結びといたします。
ご清聴ありがとうございました。
(柳 尚熙 記)

〈柳宗悦の文化賞授与〉
1957.11 (67歳) 文化功労賞
1960.1 (71歳) 朝日文化賞
1984 (没 後) 韓国政府より宝冠文化勲章

美しい韓国の風土(ビデオより)