129. 「志賀直哉を育てた女性たち」

第三回企画展記念講演会
第52回面白白樺倶楽部開催報告

講師 松井貴子氏 (宇都宮大学国際学部助教授・学術博士)
期日 2005年9月9日(金)18時30分より
場所 アビスタ(我孫子市生涯学習センター)第2学習室

松井貴子先生
松井貴子先生
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志賀直哉を育てた、三人の母親たちと妻康子(さだこ)について、直哉の視点から、たくさんの資料を用いて、面白く且つわかりやすく論じていただきました。当日講演の要旨をレジュメに沿って、また、先生の論文“志賀直哉の「母親たち」”(後述)を参考に御紹介いたします。

講演の趣旨

志賀直哉には、実母銀(ぎん)の他に義母浩(こう)と実質的な母親役を果たした祖母留女(るめ)という「母親」が存在しました。これら三人の女性が、直哉の意識の中でどのように認識され、位置づけられているか、直哉の幼年期から、青年期にかけて形成された「母親」像が、どのようなものであったかを先ず解説されました。次に「母親たち」との比較において、直哉にとっての「理想の母親像」(松井論文)と重なる妻康子が、直哉に与えた影響と役割を明瞭に浮かび上がらせる事を、今回講演の主な目的としてお話しいただきました。
      

三人の母親たち――直哉の中の認識と位置づけ

祖母留女(るめ)    天保七年生まれで、近代以前の感覚を持つ祖母であります。 嫁の銀から、志賀家の大事な嫡男となった直哉を取り上げ、自分の手元に置き養育し、盲目的に愛し、直哉もそれに心から応えます。直哉にとって「総ての人類を通して彼には唯一の人間であった」(未定稿)と祖母への激しい愛情を吐露しています。また大正元年志賀二十九歳時の作品『大津順吉』では、祖母の看病を受ける主人公が、「いつも抱かれて寝てゐた祖母の体の独特な香が突然憶ひ出され、幼年時代の情緒が立ち起こって来た」と告白しています。つまり、直哉にとって、祖母は「生理」(松井論文)でとらえられた存在であり、「原初的」(同)なつながりのものでありました。しかし、直哉は祖母との時代のずれを意識しており、成長し、自立するためには克服されて行かねばならない存在でもあったのです。 (有島生馬宛書簡)

満員の会場
満員の会場
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実母銀(ぎん)   直哉が12歳で死別した実母の記憶は、女中のように働いている様子、足袋のことで母をいじめたこと(『母の死と足袋の記憶』明治45年執筆)、母の妊娠を知って喜んだことと、死の床の母のこと(『母の死と新しい母』明治45)などが印象に残っている程度であります。直哉は、祖母との間のような感覚的な体験はなく、母の体臭も覚えていないのです。女中のような格好で縁側を拭いていた母のふくらはぎにあった白い線で、漸く母を思い起こせる程度なのです。(『白い線』昭和31年)ふくらはぎの記憶や、母の小さな写真(『実母の手紙』昭和24年)や夢(実篤との対談「秋の夜話」昭和38年)で、繰り返しくりかえし、母をしのぶことで、母の実像を形づくろうとする悲しい姿の子供がいます。祖母の愛は大きいが「イヤが上に母の愛といふものがほしいのです」(草稿明治42)、とその心情を吐露しています。実母は直哉にとり、永遠に、かなえられぬ「慕情」(松井論文)の対象なのでありました。


義母浩(こう)   銀の死後まもなく、直哉12歳の時に母となった浩は、直哉と父直温との和解に献身的な努力を注ぎました。(『和解』大正6年)浩は継母としての立場、生さぬ仲の直哉に対しては義理を守った生き方を一貫して通します。そして、実子直三には厳しく接しました。直哉は「つかず離れずといふ六ヶしい親しみをイ持していかねばならぬと思ってゐる」(手帳十明治41年)という姿勢でした。つまり、意識的な努力によって母子の関係を保ったのであって、義母は直哉の「知」(松井論文)でとらえられ、作りだされた母親であるといえます。また、 直哉は義母を愛し、義母も非常によくしてくれましたが、「然し後の母は遂に一度も自分の母ではなかった。自分は絶えず母の死によって出来た心の穴を埋めてくれるものにあこがれてゐた」(草稿)との意識をぬぐいきれない間柄であったといえましょう。

妻康子の位置づけ

勘解由小路は、かでのこうじ
勘解由小路は、かでのこうじ
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直哉が生まれながらに定められていた存在としての祖母や実母、そして、その多感な幼年時代に否応なしに受け入れざるを得なかった、義母の存在。これら「母親たち」に対し、直哉が自ら非常なる意志を持って、選び取った妻康子はどのような存在であったか、また直哉の創作活動にいかに影響を与えたかについて、考察してみましょう。

妻康子(さだこ)   勘解由小路資承(かでのこうじ すけこと)の長女で、実篤の従妹、直哉よりも六歳下の妻康子は鳥毛立女屏風の美人に似た小柄な美人であると『暗夜行路』の中で表現されています。大正3年12月に結婚しました。康子が華族女学校中退で、再婚であることなどのために、志賀家はこの結婚に反対し、直哉と父直温の関係は益々悪化しました。直哉は、家の反対を逆手にとり、戸主反対の自由結婚をしたという理由で、望んでいた廃嫡を自ら実行し、大正4年3月1日に自身の志賀家を創設します。

新婚生活を我孫子弁天山で過ごし、我孫子居住中8年弱の間に一男四女をもうけます。大正6年には、直哉が、三年間の休筆期を経て、創作意欲を回復し、武者小路実篤の励ましもあってか一気に多くの名作を書き上げています。7月には次女留女子が誕生し、8月には、永年にわたる葛藤の末、父との和解が成立し、名作『和解』が完成します。

大正9年には、これまでの草稿をもとに長編『暗夜行路』の執筆が開始されます。大正11年元日の直哉の日記には「自分の生活を完全に創作本位のものに煮つめる」と、作家としての覚悟を記しています。こうしてみると、直哉の我孫子時代は家庭人としても、かつてなかった程充実し、作家としても、創作のエネルギーに満ちて、もっとも豊穣の季節を迎えていた時期でありました。この「家庭的充実」と「創作のエネルギー」は妻康子との結婚生活から得られたものと考えられます。我孫子での平和な結婚生活の様子は『近頃の日常生活』(大正9年)の記述からも窺えます。また大変な癇癪持ちの夫直哉は、「一番こころ易い家内に一一一一叱言をいふ」(『妙な夢』昭和26)が、康子は女性特有の従順さと柔軟な心をもって、直哉の激しい感情をうまくおさめています。直哉が甘えられる優しい母親の役目を果たしているという状況が浮かんできます。実際の直哉夫婦の会話をもとにしたと思われる『転生』(大正13年)には、感情を激しくぶつける直哉を、いかにも上手にいなしている康子が暖かいユーモアを持って描かれています。このことからも容易に想像できます。直哉は優しく甘えられる「情愛」(松井論文)の対象である康子に、激しい感情をぶつけることを繰り返すことで、自らを鎮静させ、素直な心になっていったこととおもいます。 実母の死によって長い間あいていた心の穴を埋めてくれる存在、直哉の理想の母親像として認識されたのが、妻康子であったのです。

僕より先に死んではいけない
僕より先に死んではいけない
私は来世は信じないが、仮りに来世があって、再び結婚せねばならぬやうな場合には出ず入らずにやはり今の家内を貰ふだらう。 (『無事な細君』昭和27年 69歳)
「僕はね、康子にこう言ってあるんだ。康子は僕より先に死んではいけない。ただし、 僕が死んだ翌日に康子が死ぬのは一向にかまわない…。もし康子に先に死なれたら、こっちがたまらないからね」(森田正治『ふだん着の作家たち』)
以上

付記
ホームページ作成にあたって、松井先生の論文“志賀直哉の「母親たち」”(『暗夜行路』を読む−世界文学としての志賀直哉所収)から引用させていただきました。敬称を省略していますが、(松井論文)とあるのは、この論文から引用したという意味です。松井先生の論文には、『暗夜行路』における直子像と妻康子との関連についても言及されています。大変興味深い論文で、志賀直哉作品の鑑賞、研究資料としてご紹介します。
*『暗夜行路』を読む−世界文学としての志賀直哉 』 編者:平川 祐弘 鶴田 欣也
新曜社 1996年8月30日
                         
(平林清江記)