130. 「志賀直哉と我孫子」

第三回企画展記念講演会
第53回面白白樺倶楽部開催報告

講師 阿川弘之氏(作家)
期日 2005年10月9日(日)15時より
場所 我孫子市民会館

はじめに

25年の永きにわたり、志賀直哉の弟子として身近に師事された阿川氏が、「面白く感じるエピソードだけ選び出し、継ぎ合わせた」珠玉の思い出話をご披露下さいました。

阿川弘之講師
阿川弘之講師
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阿川氏は、直哉の末弟子としての思いから、普段は志賀直哉先生と呼んでいらっしゃいますが、皆様にとっては文学史上の人物ですので、今日は「直哉」と呼ばせてもらいお話をいたしますと、前置きをされました。

直哉の傍でその薫陶を受け、直哉の人と成りを心から愛して、技量を磨きあげた偉大な作家から滲み出る、一つひとつの言葉に、心酔わせるひとときとなりました。また、その誠実で、且つ軽妙洒脱な語り口に、我孫子での直哉の暮らしぶりをありありと思い描くことが出来たのではないでしょうか。

満員の会場
大盛況の会場
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会場の我孫子市民会館大ホールは、満員のお客様で埋まり、皆様大変熱心にまた、楽しげな様子で聞き入っていらっしゃいました。会場では、ご持参のノートをひろげ、メモを取る姿がたくさんみられました。今年84歳、老大家の貴重な言葉を一言も漏らすまいとの熱意が伝わって、スタッフ一同身の引き締まる思いがいたしました。

講演の終わりの方で、直哉が得意とした駄洒落のご披露もあり、会場は爆笑の渦と化し、皆様大満足のうちに終了しました。

我孫子市長福島氏のご挨拶
我孫子市長福島氏のご挨拶
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講演会終了後に、会場で販売した阿川氏の『志賀直哉上・下』(注1)と『食味風々録』(注2)はいずれも多数用意しましたが、その場で完売となりました。なお、ファン待望の『阿川弘之全集全20巻』が新潮社から出版されています。すでに第2巻が刊行されましたが、当日も聴衆の皆様からのお問い合わせがたくさんありました。阿川氏の人気の程が良くお解りいただけると思います。

阿川氏のファンという青年から預かった手紙を、スタッフの一人が講演終了後お渡ししました。「ウム」と一言おっしゃり、大事そうに胸の内ポケットにしまわれ、少し微笑まれました。そのご様子に氏の暖かなお人柄を感じ、スタッフ一同感激いたしました。
以下、本講演の概要をご報告します。

直哉は何故我孫子(手賀沼)に来たか
−直哉が原始的直感で選んだ我孫子がもたらしたもの−

1.柳宗悦の誘い

直哉が結婚し、妻康子を伴い赤城山大洞(だいどう)に住んでいた頃(大正4年夏)のある日、我孫子に住む柳宗悦が訪ねて来ます。大沼に船を出し、共に遊んでいるとき、柳が、手賀沼の美しい我孫子に、いい家があるから来ないかと誘います。それを聞いた直哉は康子に相談もせず、我孫子行きを即断してしまいます。

大正の時代になってもまだ電灯もつかず、買い物が出来る店も、駅前の饅頭屋と豆腐屋が一軒ずつという田舎町に来る事を躊躇った気配もないのです。後に(大正12年)我孫子から京都を経て奈良に移り住む事になりますが、その際も、旧友九里四郎がいる他は、知り合いの誰もいない奈良に移住することを、ためらわず実行しています。直哉はその生涯において、23回にわたる引っ越しをしていますが、その都度、その土地の良さを原始的直感で選び取っていると言えます。我孫子に落ち着くまでの、青年時代に亘る引っ越しの数は、実に10回位を数えます。一見無鉄砲に見える直哉の引っ越し癖ですが、結果として、風光明媚なとても良い土地を選んでいます。たとえば、尾道、松江、赤城山、そして我孫子です。このことは、決して贔屓目でなく、私ども直哉門下の者の尊敬するところともなっています。

では、直哉がその鋭い直感で決断し、選び取った“我孫子”はどのような土地で、又、いかなる影響と力を与えたのでしょうか。
直哉の「創作活動」、「交友関係」、「住宅」、そして「手賀沼の自然」を取り上げ、我孫子弁天山での暮らしについてお話しします。それから、「私(阿川氏)にのこした直哉の大切な言葉」、最後に直哉の人と成りについての「エピソード」をとりあげます。

2.我孫子弁天山での生活

(1)創作活動
こうして、直哉夫妻は大正4年の9月29日に我孫子弁天山にやってきます。このころは父との不和で最も激しく悩んでいた時期であり、最初の子供を産まれてわずか56日で死なせてしまったりと、直哉の人生で最もつらい時期でありました。作家としても不毛の時代で、いわゆる、休筆期にありました。ところが、大正6年7月に二番目の子供留女子が誕生すると、父との“和解”が成り、直哉が精神の安定を得て創作意欲が俄然回復します。これ以後、我孫子を去る大正12年春までの6年間が、直哉が小説家として、生涯でもっとも仕事に打ち込んだ時期といえます。新作の短編で、我孫子が舞台になっている作品を取りあげますと、『好人物の夫婦』(大正6年8月)、『和解』(大正6年10月)、『十一月三日午後の事』(大正8年1月)、『流行感冒』(大正8年4月)、『雪の日』(大正9年2月)などが挙げられます。その他に『佐々木の場合』(大正6年6月)、『城の崎にて』(大正6年5月)、『赤西蠣太』(大正6年9月)、『小僧の神様』(大正9年1月)、『焚火』(大正9年4月)、『真鶴』(大正9年9月)などが次々に発表されます。唯一の長編『暗夜行路』前編(大正10年1月)を『改造』に連載し、後篇を断続的に発表(大正11年)し、寡作の人にしては実に多くの名作を世に出しています。

講演中の阿川先生
講演中の阿川先生
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(2)交友関係
直哉の交友関係についても、密度の濃い6年間でありました。柳宗悦夫妻(大正3年9月転居)、武者小路実篤夫妻(大正5年12月転居)に陶芸家バーナード・リーチ(大正6年柳邸内に我孫子窯を築く)を加えて、まるで『白樺』創刊当時のような連日の交友が続きました。柳はこれを「白樺コロニー」と呼んでいました。東京から牛肉が届くと、柳が蓄音機のラッパをメガフォン代わりにして直哉を呼びます。「おおい。肉があるぞ。夕飯を食べに来い。リーチもいっしょだ。」すると、程なくリーチも直哉も柳家の夕食の卓に揃うということでありました。買い物をする店がないので、柳夫人の兼子が歌の稽古などで上京した際、今のアメヤ横町で食材を仕入れて帰る日はシチューや、すき焼き、ステーキなどが食卓を賑やかにしました。が、普段は材料不足ですから、兼子の作る味噌汁仕立てのライスカレーが出たり、デザートには餅にバターと砂糖をつけたのが出されたりしました。それを直哉もリーチも楽しんで食べたものでした。志賀家に皆が集まる時も、同じようなものでした。後にイギリスに帰ったリーチが、「我孫子時代が生涯の最も幸福な期間」と述懐しています。大正8年5月に柳邸(現市内緑村山氏邸)の庭の小屋と仕事場と資料とを火事で失い、リーチが失意の内に我孫子を去ります。その前年には、武者小路実篤が“新しき村”を完成するために、宮崎県日向村に移住(大正7年9月)しています。また、大正10年3月には柳一家が東京へ去ります。その後、入れ替わりのように、直哉の作風を慕って、自らも作家となる最初の一人、瀧井孝作(注3)が初めて訪ねて来ます。そして、作家として苦しいスランプに悩む芥川龍之介(注4)の訪問を受けたり、中勘助(現市内白山高島邸に寄寓)(注5)とも知りあい、互いに盛んに行き来しています。なお、明治29年には、すでに常磐線が開通しており、このころ、我孫子から上野、東京間の往来はなかなか便利なものでした。各駅停車は昼間は一時間に一本の割合で出ていました。我孫子上野間の所要時間は1時間15分でありました。
(阿川氏は大正4年の鉄道時刻表を、見せてくださいました。)

(3)直哉の住宅
我孫子の家は敷地が900坪、小さな家がついて、登記料、修繕代込みで当時2100円の大金を出して買いました。三部屋しか無かったので自らデザインし、みずから指揮をして、建て増しをしました。引っ越し癖のあった直哉は、常々「人間どこへ行っても住めるものだ。自分の巣は自分で作るものだ。」と言っていました。また、実家麻布三河台の屋敷は建坪だけで300坪もありましたが、そのおよそ半分が客用のしつらいであったのを苦々しく思っていた直哉は、実用一点張りで、家族本意の設計にすることを基本方針としました。七部屋ほどの母屋と、崖の上の離れ、大正10年に建てた別棟の書斎の三つからなっていました。この実用本位という考え方は、直哉の終の住処となった東京渋谷の家の新築の際にも生かされましたし、直哉の文学や芸術感にも一貫して流れていた精神でありました。
(なお、直哉が指図して造ったこの家の100分の一の模型を、「志賀直哉・康子我孫子転居90年展」の展示品として白樺文学館二階和室にて公開中です。皆様是非ご覧下さい。)

(4) 我孫子(手賀沼)の自然
柳も直哉も我孫子の手賀沼を望む風光明美な自然に東洋風の「静」の思想を育まれましたが、柳は「思想」の形で表現し、直哉の場合は、東洋美術への関心とが出合って、『焚火』その他短編制作の際、文章の風格となって滲み出たように思われます。
少し長くなりますが我孫子(手賀沼)の自然について、柳と直哉の感慨を引用します。

沼越しに眺める富士の夕映えのすばらしさに、「こゝは地上の美しい場所の一つだと自分はよく思った」、そして「思想の暗示やその発展に、自分はどれだけ此我孫子の自然や生活に負ふた事であらう。静かなもの寂しい沼の景色は、自分の東洋の血に適ひ、又東洋の思想を育てるに応はしかったと思ふ。余の思索に何か静かな一面があるなら、余はそれを主として我孫子の七年間に負うてゐると思ふ。」(「白樺」大正十年四月号「我孫子より」柳宗悦)

「雪は降って降っている。書斎から細い急な坂をおりて、田圃路に出る。沼の方は一帯に薄墨ではいたようになって、何時も見えている対岸が全く見えない。沼べりの枯葭が穂に雪を頂いて、その薄墨の背景からクッキリと浮き出している。その葭の間に、雪の積った細長い沼船が乗捨ててある。本統に絵のようだ。東洋の勝れた墨絵が実にこの印象を確に掴み、それを強い効果で現している事を今更に感嘆した。所謂印象だけではなく、それから起って来る吾々の精神の勇躍をまで掴んでいる点に驚く。そして自分は目前のこの景色に対し、彼等の表現外に出て見る事はどうしても出来ない気がした」(『雪の日』大正9年2月志賀直哉)

(現在も、晴れた日には沼べりから富士の夕映えを見ることができます。)

我孫子の墨絵のような自然が直哉に与えた影響は確かに存在すると言えます。
明治43年創刊当時の『白樺』同人達は、直哉をはじめ、皆ロダンを愛し、ルネッサンス美術などの西洋美術一辺倒でありました。青年期における、父との葛藤や、その他色々な苦悩から逃れ、苛立つ気持ちを癒すため、自然に親しみ、西洋風のものから東洋風のものに向かっていった時期であったといえます。「動」から「静」へ、そして「濃」から「淡」へとその作品の風格が変化したのです。この精神は大正15年(昭和元年)に刊行された美術図録『座右宝』(注6)の中に生かされましたが、世間に愛読される作品ができたら、直哉の名など忘れ去られて良いとする思想にまで昇華されて行きます。

「夢殿の救世観音を見ていると、そこには作者の名のようなものは、全く浮かんでこない。それは作者から遊離した存在なのである。文学の上で、そんな仕事ができるものがあったら、それに自分の名などかぶせようとは思わない。本当に気にいった作品ができたら直哉の名など忘れ去られて良い。」(『座右宝』)

自分の作品は正しい形で残すよう遺言しましたが、名を残すことを望まず、従って、文学碑、旧居などを保全することを堅く禁じました。死後は「灰は海に撒いて欲しい」「葬式もするな、墓もつくらなくてよい」とありました。やむを得ず葬式をし、墓も青山につくりましたが、法事のようなことはしませんでした。ですから、芥川の「河童忌」太宰の「桜桃忌」の類はありません。
直哉の「山鳩忌」、「焚火忌」のようなものは無いのです。
直哉はその生涯を通じて、潔癖で、正直で、厳しい人間であるといわれましたが、大変人間味の有る人でした。どうか皆さん、汲めども尽きぬ志賀直哉作品を読んでみてください。

講演会会場
講演会会場
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『和解』、『雪の日−我孫子日誌−』、『雪の遠足』などは我孫子が舞台となった名作です。その他『城の崎にて』、『焚火』をお薦めします。特に『焚火』は、非常に東洋的な、味わい深い、墨絵のような美しい作品です。 谷川徹三さんは殆ど芭蕉に肉薄する作品だといっています。
あと10日余りで直哉の命日です。昭和46年10月21日に、88歳で亡くなりました。

3.私(阿川氏)へ残した直哉の言葉

(1) 作品について
「大欲は無欲に通ずで、良いものを少し書いた方が結果として得なのである。本当に自分の気の入ったものを書きなさい。」
書き直すことで、普通は原稿の枚数が多くなるものであるが、直哉の場合は逆に枚数が減りました。丹羽文雄など昭和10年代の流行作家の一年分の枚数が、直哉が一生の間に書いた原稿の枚数と同じだと言われています。

(2) 作家の姿勢について
直哉は源氏鶏太のような大衆文芸の愛読者でもありましたが、「純文学は大衆文学とは別のものという厳しい姿勢で、芸術としての文学をめざしなさい」と、常々言われました。それから、作家が書いているうちには、「節(スランプ)にぶつかる時が来るが、それは苦しいことだが、大変いいことである。その節を出抜けたら、より上の段階に飛躍出来るのです。」

4.直哉のエピソード

(1)メチニコフ(注7)の遺骨のこと
フランスのパスツール研究所のメチニコフはロシア人であったので、その死後パリのパンテオンに葬ることは叶いませんでした。それ故弟子達が、墓はどうしたら良いかとメチニコフに問いました。すると、自分の遺骨は研究所の図書室の書棚の上にでも置いて欲しいと答えました。それで、今でも彼の遺骨は書棚の本の隣にあります。この話を、直哉は大変気にいっており、自分の死後もかくありたいと言っていました。

(2) 神経痛と迷信について
赤城山大洞に住んでいた頃のある日、鳥井峠に出かけた直哉は石仏(地蔵)が並んでいるのを見つけました。癇の強い直哉はその右足で地蔵を蹴飛ばしてしまいます。その後、我孫子にやってきた直哉は神経痛に悩む事になります。大正10年から11年にかけての2ヶ月程、右足の大腿骨が非常な痛みにおそわれます。又、上の二人の子供を亡くしたりしましたので、妻康子は恐る恐る、お地蔵さまのたたりかもしれないから、猪谷さん(注8)に頼んで、お地蔵の供養をして欲しいと頼みます。ところが、直哉は神経痛の非常な痛みに耐えながら、厳として受け付けず、供養などの迷信は絶対にしてはいけないと答えます。一度受け入れた迷信はずうっと続く事になるというのが、直哉の信念でした。

(3)直哉の正直さ
直哉の五女田鶴子が17歳、東京世田谷新町に住んでいた頃の事です。直哉の家の離れに住んでいた画商の高橋信之助の奥さんがとても楽しい人でしたので、田鶴子はよく遊びに行っていました。ある日母屋に帰って、直哉に「奥さんてほんとうに滑稽な方ね」と何気なく話しました。面白い人という意味だったのですが、直哉は「他人の奥さんを滑稽な人とは失礼だ、すぐ行って謝るように」と大変きつく叱ります。仕方なく離れに戻り、事情を話して謝ったということです。直哉の潔癖なまでの正直さの表れたエピソードだと思います。

(4)直哉の駄洒落
直哉の性格として、潔癖で、正直で、厳しいといわれていますが、人々が見過ごしがちなものとして、ユーモラスな素質があげられます。
日本の文化史上長い歴史と伝統に裏付けされながら(狂言などがその例)、明治時代から軽視され、等閑視されたユーモアでしたが、直哉の作品にはユーモア精神にあふれたものが有ります。東京人特有の駄洒落も大好きで、よく周りの人を喜ばせていました。

あの人も大分老ひぼれたね、幾つだらう?  もう六十三、わかるかい。

菊といふうちの女中は不思議に蚤や蚊にさされない 女中菊(除虫菊)だからね。

などなど

(5)直哉夫人の康子(さだこ)について
癇癪持ちの夫に仕え、6人の子供を育てながら、訪れる多くの客にも同じように接した康子夫人は、作家の河盛好蔵によって日本三名夫人の一人とよばれています。あとの二人は、仏文学者辰野隆氏夫人、経済学者で文化勲章受章者の小泉信三氏夫人です。

阿川先生を囲んで記念写真
阿川先生を囲んで記念写真
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(6)直哉の命日
直哉の命日は10月21日です。直哉の門下や知友達も同じように21日に亡くなるという、不思議な偶然の重なり合いがあります。
広津和郎が9月21日、滝井孝作が11月21日、里見クが1月21日なので、あいているのは12月なんです。もうじきなので、私(注:阿川氏)はね、ちょっと気をつけています。(会場爆笑)
以 上
(平林清江 記)

注記
(注1) 『志賀直哉上・下』新潮社 平成6年 野間文芸賞、毎日出版文化賞を受賞
(注2) 『食味風々録』新潮社 平成14年 読売文芸賞受賞
(注3) 瀧井孝作 『瀧井孝作全集』中央公論社 昭和54年5月 第10巻 「志賀さんの奥さん」『随筆集 志賀さんの生活など』新潮社 昭和49年5月「志賀さんの生活−我孫子にてA・B・C」
(注4) 芥川龍之介『現代の随想6志賀直哉集』 阿川弘之編 弥生書房 昭和56年7月 「沓掛にて−芥川君のこと−」『志賀直哉全集』岩波1999年5月 第6巻 所収
(注5) 中勘助『沼のほとり』中勘助著 岩波 1983年6月『志賀直哉全集』岩波1999年 5月 第13巻「大正12(1923)年日記
(注6) 『座右寶』志賀直哉編集発行 編集責任者橋本基 1926年11月
座右寶刊行会 奈良京都の東洋美術の写真を集めた大型豪華本 定価68円
(注7) メチニコフ ノーベル生理学・医学賞を受賞したロシア出身の免疫学者、E・メチニコフ(1845-1916)
(注8) 猪谷さん『焚火』大正4年6月新婚の直哉夫妻が赤城山大洞にやって来ます。猪谷旅館の猪谷六合雄(いがやくにお・オリンピック選手千春の父)に依頼し、山小屋を作り移り住みます。同年9月29日、我孫子に移転するまでの三ヶ月ほどを、この地で過ごしています。作品中Kさんとあるのは、猪谷六合雄氏のことです。