134. 「宮崎の新しき村を訪ねて」

第54回面白白樺倶楽部開催報告

講師 馬場昭道氏 (我孫子市浄土真宗真栄寺 住職)
期日 2005年11月18日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

馬場昭道 氏
馬場昭道 氏
クリックで拡大
馬場先生の生地、宮崎県の小林市から1時間余りの距離に九州の「新しき村」があります。そこへたびたび訪問されて、まだ健在であった武者小路(杉山)正雄、房子夫妻、現地で実際に生活されている方々と直接面会されたときの様子をはじめ、最近の新しき村の事情など、貴重なお話の数々をおうかがいました。その数年後先生は九州の地を離れ、昭和62年(1987)我孫子市に新しく寺を開き、我孫子真栄寺住職となり現在に至っております。以下は当日の先生のお話の要約であります。

はじめに−出会いと「挨拶」に

「こんばんは」。挨拶は禅宗の言葉で「己(おのれ)の心をひらく」ということです。挨拶の原点は己の心をひらくということです。我々の先輩は、知識でなくて、語源を知っていました。「自分の心をひらく」というのは難しいことです。エスキモーは「鼻と鼻をあわせて」、マサイ族の一部では、相手の顔につばをかける(!)挨拶があります。西チベットでは合掌して挨拶します。そういう出会いが「新しき村」にあったのではないかと思います。武者小路さん達、白樺派の連中は、若かろうが、年をとっていようが、志がいっしょだった、「みんなが集まって自分の心をひらいて出発したんじゃないか」といつも思います。
      

「新しき村」との出会い

「新しき村」は自分の心をを開いて出発
「新しき村」は自分の心をを開いて出発
クリックで拡大
宮崎にいた時、井上信一(元宮銀頭取)氏の縁で「新しき村」を訪れるようになりました。井上信一さんは、偉大な経済人であり、文化人なのですが、当時、「新しき村」があるので宮崎にいらしたのです。1975年、私が、35歳くらいのときのことでした。「新しき村」は山なので、魚を持っていくと喜ばれると聞き、鰹を持っていきました。房子さんが喜ばれると杉山さんも一緒に喜ばれました。
実篤は、大正七年(1918)に、新しい土地、四方を高い山に囲まれた盆地、三方の川に囲まれた、飛行機の上からでないと全景は見えない土地、をよくみつけられました。物理的勘がないとみつけられないところです。「最初の土地は何かの点で比類のないものを持っている必要があった」どこにも比べようがない土地である必要がありました。
        
新しき村は神々が・・・
新しき村は神々が・・・
クリックで拡大
その後、新しき村に何回も行きました。何回行ってもほっとするところですね。やすらぎがある。今の言葉で癒しがある。最初の土地は比類のないものを持っているのが必要だったというのはそのあたりです。房子さん、杉山さんと何回か会いました。房子さんを訪ねる人は気を遣っており、一方、杉山さんは、気を遣われる方で柔和な方でした。房子さんが柔和でないかというとそういうわけではありません。房子さんは、キレ者で人間関係にとても敏感な方でした。お会いしたとき、90歳でしたが、ちゃんと日本髪を結い、言葉を選んでお話をなさる方でした。

「新しき村」を去る

寺を開く土地に我孫子を選んだのは、地域的にも地理的にもよいところだったからです。関東一円に浄土真宗がなかったのも我孫子に来た縁で、山階鳥類研究所があったからでもあります。鳥がたくさん来るからここに住みたいと思いました。志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤、バーナードリーチなど若手の優秀な人々が集まっていたからでもありました。我孫子は、比類のない土地で、姿、形はちがうけれどピンときました。我孫子は、富士山あり、手賀沼あり、星の輝きあり、手賀沼と利根川にはさまれたうなぎの寝床っていうのがよかったです。井上信一氏と「新しき村」の流れを汲みいまも「開かれた寺」をめざしています。

馬場先生旧知の方々も
馬場先生旧知の方々も
クリックで拡大
房子さんに「我孫子にお寺を建てますので、新しき村を去ります」と言うと、今までにないほど機嫌がよくなり、「新しき村」に移り住む前に我孫子に住んでいた頃の昔のことをいろいろ話されました。「新しき村の前に住んでいた我孫子の家は、自分が設計した家なので写真をとって送って」と頼まれました。こんなことを言われる方ではなかった方です。その後、我孫子に移り住んでからほどなく、房子さんがお住まいの家の写真を撮りに訪ねました。
その家の方に「今の家は房子さんが設計された家ではありません。その後どんどん変わりました」と言われてがっかりしましたが、このことは房子さんには言えませんでした。

房子さんから、昔話として「若い新人の女流作家が自分の子供を亡くして葬儀の費用に、10円借りにきたけれど実篤にはその10円がなく、志賀直哉に船で10円を借りにいき、その女性に貸した」こと、「映画が好きで好きでたまらないのに全く(映画館の)ない我孫子へ、実篤にかどわかされて来た」ことなど、房子さんが我孫子に住んでいた頃の話をいろいろうかがいました。機嫌がいいと、なかなか言う方だと思いました。

またすぐそばの壷を「我孫子の家を新築したとき、宗悦から李朝の壷をもらったのよ。」とか、台所には「実篤がヨーロッパのお土産にもってきたのよ」というロダンの作品が何気なく置いてありました。「もっと大切にされたら・・・」と言いかけましたけれどやめました。それが新しき村の考え方だと思ったからです。実篤が新しき村をこの地に決めたのは大正7年(1918)11月14日。実篤がロダンの誕生日に決めました。実篤はロダンの作品をとおしていろんなものを学びそのバックグラウンドに触れていたことを感じます。

「新しき村」を訪れて

つい先日、このたびのお話もあり、15、6年ぶりに新しき村に行ってきました。最新の新しき村をみんなにみてもらおうと思って写真をとってきました。(馬場氏が写真をまわされる)神々が存在するようなところです。今は、昔と違って新しい道路も出来行きやすくなっています。10年前は、峠をこえないと行けませんでした。峠の上から新しき村の碑がみえました。その碑にはこう刻まれています。

新しき村松田省吾さんからの贈り物
新しき村松田省吾さんからの贈り物
クリックで拡大
星と星が讃嘆しあい、
花と花とが讃嘆しあうように、
人間と人間とも賛嘆しあいたい

(武者小路実篤の詩碑)

相変わらず、ロダンでも李朝の壷でもなにげなくさりげなくおいてある。それも、「新しき村」の最初の思いだったんだろうなあ、当時も雨漏りがしそうな感じがして大丈夫ですか、というようなところでした。そしてまた現在松田省吾氏にお会いし、やはりここで、何かがうまれるところだなと感じました。

こうした「新しき村」の流れで、この先どういう思いで「新しき村」の心をひきついで寺づくりをしていこうかと思いを新たにしています、とのお言葉で講演を終えられました。

おわりに−様々な人との出会い

石山教授(中央)
石山教授(中央)
クリックで拡大
最後に、「新しき村」の精神を語り合うお仲間の一人、当日偶然に馬場先生を訪問された早稲田大学教授の石山修武先生も講演会に参加いただきました。石山先生は世界各国の建築に参画されて活躍中であります。また全国の左官職人さんを集めて、伊豆の長八美術館をお作りになり、建築関係の賞も数多く受賞された方です。そして、馬場先生の内容の濃い、各方面の方々との出会いを大切にされている沢山のエピソードをお聞きし、いまなお「新しき村」の理想を胸に生きておられる方々のお一人ではないかとの感を強く思いました。
(竹内百合子)