135. 「柳兼子カレー考証」(5)

第55回面白白樺倶楽部開催報告

講師 石戸孝行氏 (京北スーパー相談役)
期日 2005年12月9日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

面白倶楽部恒例の「柳兼子カレー考証」も回を重ね第五回目の開催となりました。
今年も、味と食文化を求めて全国、全世界を駆け巡る石戸孝行講師にご登場願いました。石戸氏は去る11月3日文化の日に、永年の間県の経済界に貢献されたことに対し、めでたく千葉県商工功労賞を千葉県知事より授与され表彰されました。今後も地域経済活性化と芸術文化の融合にご尽力され、さらには「白樺文学兼子カレー」で我孫子のまちおこし計画をはじめ、白樺派の文人の紹介及び手賀沼の浄化に熱意と情熱を持って取り組まれ、風光明媚な手賀沼を取り戻すべく大いなるご活躍を期待されております。またこの日は石戸講師の強い願いもあって急遽特別開催されたライブリサイタルにより、一段と充実した面白白樺倶楽部の納会となり大盛況にて終了しました。

はじめに「カレーうんちく」

講師 石戸孝行 氏
講師 石戸孝行 氏
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本日の講師、石戸孝行氏は自らを自遊人・旅士(たびし)と称し、世界をめぐり蓄積された食と味についての体験と、美しい手賀沼のための研究にそしてまた5年目を迎えた兼子カレー考証の総集編としてのお話しをしていただきました。

(1)日本のカレーにまつわる歴史
1887年(明治20年)
風月堂ではカレーライス、カツレツ、オムレツ、ビフテキなど8銭均一で売り出された。
1888年(明治21年)
酒悦が『福神漬』を売り出す。最初は日本郵船が船中のカレーの薬味として使われた。後一般市中のカレーの副菜として使用された。
1898年(明治31年)
石井治兵衛著 「日本料理法大全」にカレーは日本の伝統料理としての作り方が紹介されていた。
日清・日露戦争ではポークカレーが食されていた。
今日現在では毎週金曜日の昼食に、北海道から沖縄までの海上自衛隊員が一斉に「カレーライス」を食べています。
1913年(大正2年)
薬種問屋・『浦上靖介商店』大阪に創設。(香辛料 ハウス食品の前身)
1914年(大正3年)
日本橋 岡本商店「ロンドン土産即席カレー」を売り出す。 
1915年(大正4年)
西野美代子著「家庭実用献立と料理表」にカレーが紹介される。
カレーの薀蓄に聞き入る
カレーの薀蓄に聞き入る
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1917(大正6年)
「嫁入り文庫」 実業之日本社 チッキンカレーが紹介された。

(2)当時の時代背景 
1906年(明治39年)の流行り唄(雑誌『白樺』創刊の4年前) 
ああわからない
添田唖蝉坊 作詞 小山作之助 作曲 
♪ ああわからない わからない 今の浮世は わからない 文明開化と云うけれど 表面ばかりじゃ わからない〜♪

1915年(大正4年)
ンドラの唄
吉井 勇 作詞  中山晋平 作曲
♪ いのち短し恋せよおとめ 朱き唇あせぬ間に 熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日のないものを〜♪
以下省略

2. 柳兼子式『味噌入りカレー』の発祥 

柳宗悦・兼子夫妻が我孫子に転居したのが大正3年9月、志賀直哉夫妻が転居してきたのが大正4年9月、武者小路実篤夫妻が大正5年12月に転居し白樺派の3家族が集い、バーナード・リーチも大正5年柳家の邸内に作陶の為の窯を築き、小屋と作業場を持ち、宗悦兼子夫妻の家に週5日寄宿していました。我孫子が「白樺芸術村」、「白樺コロニー」とも称された時代でした。当時の我孫子には豆腐屋が一軒、大福餅を売る菓子屋が一軒、うなぎ問屋が一軒、缶詰を売る店がありました。その他、店屋らしいものがほとんど無かったころです。このような我孫子では、ふんだんに食材を手に入れることができなかったと思われます。そのころ柳宗悦は東洋大学教授で週に一、二回講義に東京に出かけていました。兼子夫人も週一回木曜日に必ず東京に音楽の出張教授をしておりました。上京した折、上野駅近くの賑やかな横丁で、肉や、野菜、香辛料をバスケット詰めにして、帰りの汽車まで預けておく。そういう日は、柳家のメニューが豊富になるけれど、普段は材料不足だから、味噌汁仕立てのライスカレーが出たり、餅にバターと砂糖をつけたのがデザートだったり、それをリーチも直哉も楽しんで食べていたとの記録があります。志賀家に皆が集まる時も、同じようなものであったと思われます。
後にイギリスに帰国したリーチが自伝の中でこの我孫子時代を振り返り、「それは私の生涯最も幸福な期間でした」と書いています。

3. 手賀沼のシジミ

白樺派の文人が移り住んだ大正時代には手賀沼は、大変きれいな沼で、『和解』に出てくる三造(本名宇田川三之助)さんや、柳兼子さんも手賀沼でシジミ取りをしていました。
大正4年と昭和52年の手賀沼漁業に関する売上データがあります(単位円)
  大正4年  昭和52年
9491
119100
海老
1909
26710
うなぎ
12084
1350
          
大正時代のうなぎは5千貫、売上金額13800円の記録が残されています。
うなぎは「我孫子うなぎ」と言うと築地ではめいがら品として扱われ、通人の口でなきゃ入らないと言われていました。利根川のものより35%高かったそうです。利根川のうなぎを手賀沼で少し養殖し「我孫子うなぎ」として販売した知恵者もいたようです(?!)。

シジミの環境浄化作用
シジミは宍道湖を3日で浄化
シジミは宍道湖を3日で浄化
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餌の取り込みや呼吸のためにヤマトシジミの体内を流れる水の量はシジミ1g当り1時間で約0.2リットルなので、宍道湖全体では1日で約1270億リットルの水がシジミの体内を通過することになります。これは宍道湖の全湖水を約3日間でろ過していることになります。
石戸氏はご自宅にもシジミや水の浄化をする水草ガシャモクを飼育・栽培されております。

手賀沼の水質

昭和20年代までは水泳をする子供たちが見られました。昭和30年代以降、周辺の団地造成等都市化の波が押し寄せ、人工が急増しました。このため、生活排水が流入し、水質の悪化が進み、昭和40年代には、夏にアオコの異常発生がおこるようになりました。沼の水質の急激な悪化したことにより、水生植物が減少し、沼で生息する魚にも大きな影響を受けました。
全国湖沼における水質ワーストランキング(汚れを表すCOD数値)

手賀沼
平成11年度ワースト1位 (COD 18mg/1)
平成12年度ワースト1位 (COD 14mg/1)
平成13年ワースト2位) (COD 11mg/1
平成14年ワースト9位 (COD 8.2mg/1 )

(CODとは、CHEMICAL OXYGEN DEMAND 科学的酸素要求量という意味です)
利根川から揚水し、通常5トンの水を手賀沼に導入する、北千葉導水事業が平成12年度から始動しました。以来水質は毎年のように改善されつつあります。
石戸氏は、手賀沼エコマラソンの日に(2005年10月30日)手賀沼でなんと中型の「ぼら」の遡上を発見されました。(大ボラではありません)
こうした「孫たちに美しい手賀沼をひきつがせたい」との願いが環境オペラ「手賀沼賛歌」につながっていきます。

5.オペラ「手賀沼賛歌」上演まで

昭和60年8月作曲家 仙道作三氏と石戸孝行氏が会った際、石戸氏は日本一汚染された手賀沼に関係した何かを行っては、と提案しました。
「手賀沼を愛した白樺派の文人たち」の「当時の手賀沼」をたたえようとの気持ちから環境オペラ「手賀沼賛歌」が作られました。石戸孝行実行委員長の絶大なるご尽力もあって多くの人々の協力が集まりました。 初演が1987年10月24日と25日の2日にわたり上演され、柏市民文化会館大ホールは超満員となり、2日間で入場者数3200人と、拍手なりやまず大成功のうちに閉幕しました。その後1992年に再上演されました。                         
 

6. オペラ歌手の歌声

作曲の仙道作造三さんと渡辺真弓さん
作曲の仙道作三さんと渡辺真弓さん
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05年12月9日第55回面白白樺倶楽部で、なんとこのオペラ「手賀沼賛歌」の作曲家仙道作三氏の特別参加の司会により、オペラのハイライトが再現されたのです。

○ 歌 ソプラノ歌手渡辺真弓さん。(芸大・日本歌曲コンクール2位・日本語がとても上手な歌手)
○ 演奏 ピアニスト 岸本信子さん
(ピアノは急遽 渡辺調律師より借用)
演奏曲目
1曲目 中勘助作詞、仙道作三作曲     「沼べ」
2曲目 山本鉱太郎作詞、仙道作三作曲   「別れ」

熱唱の渡辺さんとピアノの岸本信子さん
熱唱の渡辺さんとピアノの岸本信子さん
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沼ベ
作詞 中 勘助
作曲 仙道作三

雨あがりの 納屋のかげに
ぶらりとさがる 支那瓜
柑子みかん 茶の花
ねぎの畑 藍のはた(あゐの畑)
藍の花 くれなゐにさき(くれないにさき)
そのそばに 黄菊さく(かたはらに)
なきのこる 虫をききつつ
あひるの行水を みてゐれば
渡し舟に のりおくれて
おうおうと 岸によぶ人
雨ぐもは ひくくかかり
沼のなみ つめたくよる
ひとりたち しづかに思う
うれしくもわれは ここに来しかな
(注)「沼べ」は、中勘助が、大正9年2月から大正12年11月まで手賀沼湖畔に仮寓したときの日記に記載された「沼のほとり」より。( )はオペラ演奏時の歌詞

別れ(柳宗悦が我孫子を去るとき志賀直哉と)
作詞 山本鉱太郎
作曲 仙道作三

「おれは、ホントは手賀沼離れたくなかった。おふくろのことさえなかったら。
こんな美しい沼なんて、日本にそうめったにあるもんじゃない」(柳宗悦ソロ)

「おれもそう思うよ」(志賀直哉ソロ)

「手賀沼の霊気に触れたのは、ワシだけじゃない。お前も、そして日向へ去った武者小路も、そしてリーチもだ。みんな手賀沼から大きな活力を得て、力強くはばた羽搏いていったんだ。手賀沼はおれの太陽だった。
わが青春のすべてだった。その手賀沼と、いま別れることは、本当につらくて悲しい」

7.「白樺文学館」恒例カレーパーティ

白樺文人の食べたカレーをしのんで
白樺文人の食べたカレーをしのんで
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オペラ「手賀沼賛歌」の第三幕「手賀沼を愛した文人たち」で柳兼子(ソプラノ渡辺真弓さん)が歌った「沼べ」美しかった手賀沼を髣髴とさせる一幅の絵のような詩と叙情味あふれる美しいメロデー、2曲目は大正10年春、まもなく手賀沼から去ってゆく柳宗悦が、すでに去った武者小路やリーチを思い、今志賀直哉との別れを思う切ない気持ちと、残される直哉の心境が余すところなく歌われ、当日参加の40数人全員が深い感動につつまれました。

ビアパーテースナップ
ビアパーテースナップ
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素晴らしい歌声の余韻の残るなか、益子の濱田庄司窯で作られた素敵な大皿でカレーをいただきました。今日のカレーの第一印象は「クラシックマイルド?」かな。
80数年前に柳兼子さんが作っていたカレーの味をしのびながら、ふとおもったことは、白樺派の文人たちも、手賀沼に集い、カレーを食べながらきっと新しい時代に向けての何かをめざしながら、懸命に生きていたのではなかったかということでした。
特別出演の渡辺真弓さん、岸本信子さん、ピアノ提供の渡辺さん、オペラ「八犬伝」の開演準備に多忙な仙道作三さん本当にありがとうございました。

皆様どうぞ良いお年をお迎えください。そしてまた来年も「白樺文学館」と
「面白白樺倶楽部」をよろしくお願いします。
(矢野正男)

参考資料
オペラ「手賀沼賛歌」写真集「虹をくわえてきた鳥たち」1988年
発行所 オペラ「手賀沼賛歌」を語る会