137. 志賀直哉「赤西蠣太」を読む

第56回面白白樺倶楽部開催報告

講師 小林幸夫氏 (上智大学教授)
期日 2006年1月13日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

この冬は当地我孫子も冷え込む日が続き、手賀沼を渡って吹いてくる風は、冷気を含んで身を切るようです。けれども、厳しい寒さの季節にも、その季節だけが持つ凛とした美しさがある・・・志賀直哉の短編「雪の日−我孫子日誌−」(大正9年2月)を読むと、そのことがしみじみと感じられます。

志賀は、我孫子に転居して2年目の大正6年4月「佐々木の場合」を書き上げ、亡き漱石に献じました。彼はこの作品を皮切りに、4年間の沈黙を破って堰を切ったように創作活動を再開します。「城の崎にて」(大正6年4月)「和解」(大正6年10月)「小僧の神様」(大正8年12月)、そして前出の「雪の日」など、彼の代表作ともいえる短編が、我孫子の生活の中で書き上げられました。

著書を前の小林講師
著書を前の小林講師
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今回採り上げた「赤西蠣太」(あかにしかきた)も、そうした作品群の中のひとつです。上智大学教授の小林幸夫先生が、作品解読をしてくださいました。以下は先生のお話の一部をまとめたものです。

「赤西蠣太」は、志賀作品の中では唯一の歴史小説であるという特徴を持っています。江戸時代仙台藩のお家騒動として有名な“伊達騒動”に材をとり、伊達一門の伊達兵部宗勝の屋敷に間者、つまりスパイとして潜り込んでいた男、赤西蠣太が主人公です。彼に対する一般的な〈認知〉として“醜貌”であるということがあります。

この〈認知〉という心の作業に着目してみると、いろいろ面白いことが見えてきます。我々は何かに出会ったとき、常に無意識のうちに心の中で〈認知〉という作業をしておりますが、この無意識の部分を意識的にとりあげていってみましょう。

蠣太は女性にもてない!?
蠣太は女性にもてない!?
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さて蠣太の醜貌はさらに、“蠣太は女性に相手にされないはずだ”という〈認知〉を、友人鱒次郎の中に生みだします。鱒次郎も間者として原田甲斐の屋敷に潜り込んでいた男で、二人は互いに信頼し合う仲でした。スパイである蠣太は、怪しまれないように自然な形で屋敷を出奔し、白石の殿様に密書を届けなければならないという使命を持っています。鱒次郎が提案した屋敷出奔の方法は、“蠣太は女にもてないはずだ”という鱒次郎の〈認知〉を前提としたものでした。

「誰かに付け文をするのだ。いいかね。何でもなるべく美しい、そして気位の高い女がいい。それに君が艶書を送るのだ。すると気の毒だが君は肘鉄砲を食わされる。みんなの物笑いの種になる。面目玉を踏みつぶすから君も屋敷には居たたまらない。夜逃げをする。−それでいいじゃないか。君の顔でやればそれに間違いなく成功する。」

この企てを成り立たせるための非常に強固な制度として、美醜の問題があります。醜い男は人からさげすまれ、女性にも相手にされない、という制度です。この制度が少なくともこの小説の中では生きているわけです。

小江と蠣太の恋は・・
小江と蠣太の恋は・・
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蠣太が艶書を送った相手は、若い腰元小江(さざえ)でした。ところが小江の寄こした返事は、案に相違して好意的なものでした。彼女の返書には、次のような2点が記されていたのです。

・ 私は貴方を恋したことはございませんが、前から好意を感じておりました。
・ 私には前から貴方に対する或る尊敬がございました。

さらに小江は、蠣太からの艶書によって自らの“新しい感情”に出会うことになります。

「私は私がこれまではっきり意識せずに求めていたものが、それが貴方の内にあるものだったということを初めて気がつきました。」

腰元小江の自己発見の認知
腰元小江の自己発見の認知
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ここには小江の〈自己発見〉という〈認知〉があります。

小江からの返書を見て、蠣太は動揺し、迷い、罪の意識に駆られますが、結局〈公〉を優先し、小江には何も言わず、屋敷を出奔します。“兎も角も自分の役目は果たさねばならぬ。小江にもそれは後で解ることだ。”と考えたからです。ここには蠣太の小江に対する一方的な信頼があります。いつの日か必ず理解されるだろうという他者への〈信〉です。

一方残された小江についても“これには何かあると思った。小江は独り苦しい気持ちを忍んで誰にもそれを話さなかった。”と書かれています。ここにも小江の蠣太に対する〈信〉の気持ちが働いています。二人の〈信〉は時空を超えて架け橋となって結びついているのです。

信と信とが結ばれて愛へ
信と信とが結ばれて愛へ
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実は、この話には元となった講談(「伊達騒動 蒲倉仁兵衛」)があるのですが、それを下敷きにしながらも、作者はここにフィクションとしての独自の世界を描ききっているのです。〈信〉と〈信〉が出会う話、〈尊敬〉というかたちの愛のドラマです。またこの小説は、〈認知〉という面から読むと〈認知〉の制度に依拠した思考が、小江という女性を通して相対化された話(自明であると思われた制度が覆る話)として読むこともできるわけです。

あらかじめ小林先生は、この小説には〈語り手〉が設定されているということに、私達の注意を喚起されました。小説の中で制度となって働いている〈認知〉も、〈語り手〉のものだということです。そして〈語り手〉と〈作者〉は決してイコールではないことを確認した上で、あえて〈作者・志賀直哉〉に言及することをせず、一貫して、フィクションとして書かれた世界を解読する、という姿勢に徹して作品を解き明かしてくださいました。それは手法としてたいへん新鮮で、私達の眼を新しい世界に向けさせるものになりました。

ところで、蠣太と小江の恋はその後どうなったのでしょう・・・?〈語り手〉は、“昔の事で今は調べられない。”と言い、読者を空白の中に放置するのです。余韻に浸りながらも、さらなる想像をかき立てられる結末によって、この小説はまさに先生がおっしゃるように「読者が参加できる小説」になっています。文学作品が持つ豊かな広がりの中に身を委ね、想像し、共感しながら味わう・・・厳寒の冬の夜、充実した至福のひとときを持つことができました。
(西村さち子)