140. 「戦争と文学」−いま多喜二を読む

第57回面白白樺倶楽部開催報告

講師 伊豆利彦氏 (横浜市立大学名誉教授)
期日 2006年2月10日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

「戦争と文学」というテーマは古今東西、どれほど多くの人々によって語りつがれ、論じられ続けてきたのでしょうか。
今回はこの壮大なテーマを背景に、小林多喜二の作品と生涯にスポットを当て、さらには多喜二が文学の上でもっとも敬愛してやまなかった志賀直哉、そして芥川龍之介などとの交流についてのお話などをまじえて、おうかがいしました。

伊豆利彦講師
伊豆利彦講師
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ともすれば暗く深刻な論調になりがちなテーマを、随所に明るいアイロニー、とウィットを盛り込み、80歳近い年齢を感じさせない、エネルギー一杯の講演でありました。
多方面にわたる講演内容はとても盛りたくさんで、その凡てについて報告することはとてもできませんが、それらのごく一部を要約したものを報告させていただきます。
当日は、数十年前伊豆先生にご指導をいただいた方、あるいは昨年中国北京の西南にある保定市河北大学で開催された小林多喜二国際シンポジウム参加の諸先生など、遠方よりも多くの皆様のご参加をいただきました。

2月20日を迎えて

この2月は小林多喜二が1933年(昭和8年)に亡くなった月であり73回忌ということになります。又志賀直哉はこの20日が123回目の誕生日でもあります。志賀直哉は、多喜二の死について同年2月25日付で下記のように日記に書き残しています。

この2月という月は
この2月という月は
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2月25日 土
午后、若山 加納来て・・・・(略)
〈 MEMO  小林多喜二二月二十日(余の誕生日)に捕らえられ死す、警察に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり アンタンたる気持ちになる、不図彼らの意図ものになるべしといふ気する、〉


さらにその前日24日付けで、多喜二の母セキ宛に丁重なお悔やみの手紙と香典5円という金額を送ってその死を強く悼んでいます。
なおこれらの手紙については 当館ホームページ 2003年白樺便り第43号
2月20日を迎えて-- 小林多喜二没後70年、志賀直哉生誕120年 --
に内容などが掲載されていますのでご参照ください。

上記HPに掲載されたとおり、母セキへの手紙の中において、多喜二についての直哉の評価は、「前途ある作家としても実に惜しく、又お会ひした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります」と表現し、好悪、好き嫌いを常に明確にするという志賀直哉の言葉として、誠に率直な気持ちが表れた決定的な評価といえるでしょうと、先生は強調されました。

また小林多喜二を思うとき、必ず思い出すのは、戦後初めて参加した1948(昭和23)年多喜二祭であったとのこと。そのとき会場で聞いた壷井繁治さんの自作の詩「二月二十日―小林多喜二のお母さんへー」の一節を読み上げていただきました。

小林のお母さん
あなたの息子が殺されてから十二年たちました
あなたの息子が警察につかまって
二十四時間とたたぬうちに殺されたことを知ったとき
私は牢屋に繋がれていました。
お母さん
あなたはどんな思いでその知らせを受け取りましたか
(略)
壺井さんの詩には、深い悲しみと同時に屈辱と悔恨、そして強い怒りがこめられ、私たち戦争しか知らない世代も自分たちの失われた青春を思い、深い悲しみと怒りに心が震えたと述べられています。

小林多喜二と志賀直哉

あなたの立場から批評
あなたの立場から批評
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多喜二は小樽高等商業学校在学時代の10代から、亡くなる直前の20代後半まで志賀直哉との交流は続き、それらは現存する何通かの手紙と志賀直哉の著作などにより、その様子の一部をうかがい知ることができます。
多喜二の死の2年前1931(昭和6)年、豊玉刑務所に入っていた多喜二は差し入れをしようとして奔走してくれた志賀直哉のことを知り、その礼状とともに自分の作品を送り、「あなたの立場」から批評してほしいと頼んだのです。それに対し志賀直哉は、同年8月7日付の手紙にて多喜二の作品を

私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。

という言い方で返事をかきおくっています。原文レプリカは白樺文学館に展示中で、内容全文は下記ページに掲載されています。
小林多喜二宛[封書]奈良市上高畑より

上記書簡は1938(昭和13)年「万暦赤絵」の中に収録されて発刊されました。手紙を作品として発表されたことは、その内容とともに、多喜二への並々ならぬ熱き思いが読み取れます。
その後志賀直哉は「『主人もちの小説』を排すというのは、自分の創作方法の一つであり、文学観の基礎ではあるが、いい作品を作るということはそれとこれとはまた別である。」さらに「主人持ちの文学でも人をうつものもあるかもしれない」「要は人をうつ力があるもの、人を一段高いところへ引き揚げる力がある作品であればいいのだ」という対談記録も残っています。

志賀直哉「灰色の月」戦後の直哉と多喜二

「灰色の月」は終戦の翌年1946(昭和21)年1月に発表された作品で、電車の中で餓死しかかっている少年を見て、この戦争直後の有様を日付入りでルポルタージュ風に書き残しています。1946(昭和21)年復刊第1号の「改造」のエッセイには、悲惨極まりない戦争を忘れないためにも戦犯東條英機の銅像を作り、その「台座の浮き彫りには空襲、焼け跡、餓死者、追剥、強盗、など戦争で苦しんだ人々の姿を刻み永遠に残さなければならない」などと記しているとのことです。そのとき、「北欧の文学がヨーロッパ文学を席巻したように北海道の文学が内地の文学を席捲してしまうのだ」などと書いてきた小林多喜二はじめ、限りなくあまた多くの戦争犠牲者のことを、思い浮かべていたのに違いないとも述べられました。

おしまいに

戦争と文学、中国シンポジウム論文集
戦争と文学、中国シンポジウム論文集
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戦争と文学と小林多喜二、志賀直哉、芥川龍之介、アブ・グレイブにおける米国軍隊の拷問、満州事変以降のプロレタリア文学運動への相次ぐ弾圧、中国小林多喜二国際シンポジウムなどなどにも言及された、誠に内容豊富な講演会でありました。今回掲載できなかったぶんは、当館発行の先生の著書「戦争と文学」及び「中国小林多喜二国際シンポジウム」に詳しく述べられておりますので、ご一読いただければ幸いです。

(渡辺貞夫)