142. わが敬慕の師 ― 志賀直哉

第58回面白白樺倶楽部開催報告

講師 三ツ木照夫 氏(元日大付属桜丘高教諭)
期日 2006年3月10日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

三ツ木照夫講師
三ツ木照夫講師
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三ツ木照夫氏が、大学院修士課程の卒論を書くために渋谷常磐松に志賀直哉を訪ねたのは昭和36年7月初めのことでした。以来志賀直哉晩年の78歳から亡くなるまでの10年余り、最も足繁く志賀家に出入りし、大変厳しい教導を受けつつ、志賀直哉の人と生活に傾倒しました。演壇に立ち、志賀直哉の語り部として熱く語る氏のお話はリアルで楽しく、一般読者の私たちも“人間・志賀直哉”を十分感じ、そして知ることができました。氏の著書『晩年の志賀直哉−わが敬慕の師』(註1)に登場する多くの人々が既に亡くなった現在、“志賀直哉の語り部”として誠に貴重な証言者の役目をになっておられます。お話はあたかも怒濤のごとくであり、その全てを書き残すことができないのが本当に残念です。そこで、特に「あの人、この人」については、我孫子に縁の深い「志賀直哉門下の三羽烏」に的を絞ってご紹介いたしました。
では、以下講演の一部を要約したものです。

志賀直哉先生は私にとってバイブルでありそして百科事典・・・

晩年の志賀直哉(86歳)と三ツ木先生(32歳)
晩年の志賀直哉(86歳)と
三ツ木先生(32歳)
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三ツ木氏は「志賀先生は私にとってバイブルのような存在」であり何でも教えてもらえる「百科事典的存在」と先ず、回想されました。
また、「わたしの生涯で二人と望めない光った眼中の人、それが志賀直哉先生であり、私の生活のすべて」とも語られています。
三ツ木氏は現在、ヨコハマの小さな不動堂の堂守をしており、志賀先生から故兵藤純二氏までの「あの人、この人」を思い出し、毎朝勤行時に名前を追善読誦。心の内で志賀先生と常に対話する日々を過ごされています。また、志賀先生が亡くなった時、康子(さだこ)夫人が「まるで百科事典をとりあげられたような気持ちのことよ」と述懐されたが、何からなにまで教えてくれる先生でしたから、氏も全く同様の思いで今に至っているといわれます。

志賀先生と氏とは祖父と孫程の年齢差があったこともあり、今思えば失礼なこともたくさんしたが、志賀先生は慈愛に満ちたお顔で許して下さったといいます。折々の場面の中に先生を思い起こす時、ともにあるように感じられ、益々敬慕の念が深まるとのことです。

三ツ木氏の文学修行時代と好きな志賀作品は


「その日は朝から雨だった。」


会場スナップ
会場スナップ
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皆様ご存じ『焚火』の冒頭の一行ですが、中学校の教科書で初めて読んだとき「これなら自分でも書ける」と、意気揚々早速文学修行を始めたのでした。以来志賀直哉の作品を書き写すことに熱中し、後年は『暗夜行路』、『大津順吉』、『和解』はもちろんのこと、多くの短編の書き写しに取り組んだのでした。あたかも湯水を飲むように書いて書いて書き写して、志賀文学に没頭していったということです。
氏はどんな作品が好きかと問われれば、いつも『城の崎にて』、『山鳩』、『朝顔』などの作品を挙げるそうです。

あの人、この人 ― 志賀先生を通して出会った人びと

川端康成、上司海雲、小津安二郎、升田幸三、小島政二郎、兵藤純二、そして桜井勝美については、志賀先生を通して知遇を得、様々の教えを乞うた人びとです。これらの人びとはことのほか印象が深く、今でもありありと出会いのその時のことが思い出されるということです。なお、兵藤氏を除く上記の五氏については、三ツ木氏の著書『晩年の志賀直哉−わが敬慕の師』や阿川弘之著『志賀直哉』等に詳細に述べられております。なかでも、三ツ木氏と兵藤氏、桜井氏は当地我孫子に大変ご縁が深く、莫逆(ばくげき)の交わりを一時期すごし、「志賀直哉門下の三羽烏」ともうたわれた方々ですので少し紙面をさきたいと思います。

「志賀直哉門下の三羽烏」について

まず、兵藤純二氏は志賀直哉邸跡地保存のために「我孫子の文化を守る会」を結成した郷土史研究家でありました。同会の初代会長を勤め、たくさんの立派な研究業績を築いた方ということで知られています。とりわけ、同地を我孫子市に公園用地として購入させ、今日に残された功績は、何物にも変えがたいものと特筆され、決して忘れてはならないことでしょう。著書『大正期・我孫子在住の作家たち』(註2)は白樺派研究、特に我孫子時代の直哉研究においては欠く事の出来ない貴重な一冊となっています。
また、三ツ木氏はありし日の兵藤氏と共に、雑誌『白樺』“六号記事(註3)と編集室”から若き日の志賀直哉の人物像をとらえるということを試みたことがあり、今回の講演の中でその調査成果のいくつかをご披露いただきました。思うことを思うさま書いて、そして行動した若き直哉等の生の青春像が実に鮮やかに立ち上がりました。また、その痛快ぶりが、晩年の直哉の中にも息づいていたことなどユーモアたっぷりに、まるで眼前に見るように話してくださいました。

在りし日の兵藤氏を偲んで
在りし日の兵藤氏を偲んで
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次に桜井勝美氏は、三ツ木氏の大学の先輩にあたり、やはり志賀文学を卒論としたことで、志賀直哉と師弟の間柄になった方です。お二人は、昭和44年春敬慕する志賀先生の「足跡を拾う憶いで」我孫子弁天山(現緑2丁目)を訪れ、様々な感慨に浸りました。まだ志賀直哉が在世の頃のことでしたから、そろって常磐松に報告に行き志賀先生と康子夫人と親しく歓談した体験を、その著『志賀直哉の原像−七 我孫子』(註4)に載せています。下記引用文はその折り直哉が感慨深げにお二人に語って聞かせたものです。  

手賀沼に架けられた一直線のつめたいコンクリートの橋の写真を見た志賀先生は「昔 はみんな渡船でね、それがまたよかったものだ。向こう(沼南村−現柏市)の人は気立てがよく、 働きものが多くてね。仕事師や女中など、よく向こうから来てもらったものだ。」

「花を摘むフローラ」のこと

花を摘むフローラ
花を摘むフローラ
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三ツ木氏が講演の記念に「花を摘むフローラ」(国立ナポリ考古美術館蔵)の複製画を御寄贈下さいましたので、志賀直哉とこの絵とのゆかりについて書いておきたいと思います。
この絵は、以前から志賀直哉の好みのものでしたが、昭和46年奥平英雄に依頼して手に入れた複製画がありました。直哉臨終の際にも、ベッドのそばにおかれ、御棺にも入れられた「花を摘むフローラ」とは直哉にとって何であったのか。桜井勝美氏は次のように考察していますが、それはそのまま直哉の秘められた悲しみを、最も深く知る三ツ木氏の感慨であるともいえます。

フローラ(花神)は、いっこうにこちらを振りむいてくれようとはしない。花を摘みながら、白い清らかな素足も涼しく、向こうへ向こうへと遠ざかっていってしまう・・・。 −中略− 母、つまり先生の実母銀は、三十三歳の若さで、「不幸」のまま早逝した。
その母をいとおしみ追慕する気持は、終生先生のこころから離れたことがなかった。
ことに老境を迎えられるにつれてこの気持はますますつよいものになっていった。それ ゆえに「花を摘むフローラ」の常に遠のいてゆくうしろ姿を追い、母を手捜る気持ちに なっておられたのではなかろうか。    
『志賀直哉の原像−花を摘むフローラ』

終了後 先生との懇談会
終了後 先生との懇談会
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“志賀直哉夫妻我孫子転居90年展”のフィナーレを飾るにふさわしい貴重なお話の数々、いかがでしたでしょうか。なお、当館では「花を摘むフローラ」の複製画を展示していますので、ぜひ御覧いただきますようお待ちしております。

(平林清江)


《参考文献》
(註1)『晩年の志賀直哉−わが敬慕の師』三ツ木照夫著 昭和50年7月 新生社
(註2)『大正期・我孫子在住の作家たち』兵藤純二著 我孫子の文化を守る会
(1979年3月31日刊 「我孫子市史研究」第四号(我孫子市教育委員会)所収論文)
(註3)明治44年1月から新たに設けた欄。武者小路実篤は毎号休まずに歯に衣着せぬストレートな雑感の類を発表、他の同人たちも無邪気に発言。これらも美術の挿絵とともに『白樺』の名物となった。   『日本近代文学大事典第5巻』から
(註4)『志賀直哉の原像』桜井勝美著 昭和51年12月 宝文館出版