146. 森鴎外と白樺派

第60回面白白樺倶楽部開催報告

講師 林 尚孝氏 (茨城大学名誉教授・農学博士)
期日 2006年5月12日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

林 先生
林 先生
はじめに
謎多き作家森鴎外をめぐる日本近代文学史上の二つの事件について、『仮面の人・森鴎外−「エリーゼ来日」三日間の謎』の著者として知られる林尚孝先生に講演していただきました。

先ず第一は森鴎外と白樺派と題し、明治44(1911)年1月に起こった「反自然主義四誌合同の画策と挫折の顛末」について、第二は、謎多き作家の波瀾万丈の二年間にスポットをあて、鴎外の人生観に決定的な影響をもたらした「舞姫事件」と、この事件と表裏をなす「エリーゼ来日事件」の解明、そして鴎外にとって「永遠の恋人」であったというエリーゼ・ヴィーゲルトの真実の人間像に迫りました。さらに「舞姫事件」が鴎外にとって生涯忘れることの出来ないトラウマ(心の傷)を与えた作品として、『扣鈕』(ぼたん)と『我百首』及び『雁』の読み解きをしていただきました。自然科学者である林先生の語り口は大変小気味良く、お人柄がにじみ出た端正な講義を大いに楽しむことが出来ました。最後に林先生は『扣鈕』の詩を“ゆめみるひと”のように朗唱され、会場は面白白樺倶楽部第60回の節目にふさわしい華やいだ雰囲気に包まれました。

1.反自然主義四誌合同の画策と挫折の顛末

明治44年1月18日夜、上野精養軒での会合
そんなものはできるものか!
そんなものはできるものか!
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『スバル』の出資人平出修(注1)は、『三田文学』を主宰する永井荷風と共に、森鴎外を盟主として、『新思潮』(第二次)と『白樺』を加えて反自然主義四誌の合同を画策しました。志賀直哉の日記によると、明治44(1911)年1月18日の夜、上野精養軒で合同のための会合が開かれました。しかし、“自我”を貫こうとする武者小路実篤らは「尊敬もしていない」(『或る男』)鴎外を「頭にいただく気」(『同』)は無く、また、合同誌を出す月にはそれぞれの雑誌を休刊するという申し出に怒って、「そんなこと出来るものか」と大声で言い、『白樺』同人が退席して、この話は立ち消えとなりました。

鴎外らの試みの再評価
会場
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しかし、この画策は武者小路実篤らが理解したように果たして「自然主義に敵対するくはだて」(『或る男』)だけのものであったのでしょうか。 前年の明治43(1910)年5月に大逆事件が起きて以来、自然主義は社会主義と共に危険思想として弾圧され、こうした文芸、思想弾圧を鴎外、平出、荷風らが深く憂慮していたという事情があります。 この事件に対する鴎外らと白樺派の反応のしかたは、対照的なものでありました。 鴎外は、大逆事件の思想弾圧や、自然主義への思想統制を諷刺した小説『沈黙の塔』、『食堂』などを書き、平出修に当時の社会主義、無政府主義の知識や裁判の弁護方法を教示したりもしました。 平出修は大逆事件の裁判に弁護士として関わり、小説家としてもこの事件を作品化し『畜生道』、『計画』、『逆徒』などを書いています。 この合同の画策が裁判と並行して進められたことを考えるとき、「四誌合同によって若手作家の相互理解と連帯をはかり、表現の自由を守ろうとした鴎外の試みは、再評価されてよい」(注2)と思われます。

鴎外の白樺派観
ここで、鴎外の白樺派観として、林先生は松本清張著『両像・森鴎外』(注3)を引用されました。清張は鴎外がその随筆「空車」(むなぐるま)(注4)の中で、白樺派を「虚車」と暗喩し、その車を引く武者小路実篤の傍若無人ぶりを冷笑し傍観していると推論しています。この時期の白樺派はおおいに世に迎えられていたが、一方『スバル』や『三田文学』はその光を失い始めていたのです。

2.エリーゼ・ヴィーゲルト来日の真実

「石黒忠悳日記」三日間の謎 − 一本の補助線を引くことで解明できる真実

“自然科学者魂”が導き出した仮説−鴎外「軍医辞表提出」説
林先生の共同研究者小平克氏が提唱した新説「エリス事件異説」は、小金井喜美子著『次ぎの兄』の記述の虚飾、つまりエリーゼの名前を「エリス」とし、「路頭の花」のような女性で、「金をせびりに来日」したという記述に対して異を唱えたものでありました。小平氏はこの新説の原稿を著名な鴎外研究者四氏に送り意見を求めましたが、四氏からは否定的な回答が返ってきました。このことに林先生は大いなる疑問を抱き、自然科学の研究手法が文学研究にも通用するのか、つまり個別特殊事例から普遍的な結論を導き出すことが可能であるということを立証しようとされたのです。同時に従来の文献主義の限界を打破するために大胆な仮説を立てられました。「エリーゼ来日事件」の真実とは、結婚を目的とした用意周到かつ綿密な来日計画の上の実行であったことを証明するための補助線をまず一本ひいてみたのです。つまり、鴎外の上司である『石黒忠悳日記』謎の三日間(明治21(1888)年10月6日・7日・8日)の記述を精査解読し、鴎外の「軍医辞表提出」という仮説−補助線を導き出したのです。鴎外は赤松登志子との愛の無い結婚を嫌い、軍医を辞してまで「永遠の恋人」エリーゼと結婚するつもりであったという事実(新説)を発見、結論づけられました。

エリーゼ・ヴィーゲルトの人間像
鴎外との結婚を夢見て来日したのに、鴎外からの鉛筆で書かれた決別の手紙を受け取るや“護謨をもて消したるままの文くるるむくつけ人と返ししてけり”(『我百首』第40)とその申し出を毅然として拒否しています。しかし、鴎外が辞表を提出したことを知ると、直ちに帰国を決断した優れた判断力と心の広さを備えた誇り高い女性こそが、エリーゼ・ヴィーゲルトの真実の姿なのです。

鴎外にトラウマを与えた「舞姫事件」
三日間のなぞ
三日間のなぞ
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エリーゼ・ヴィーゲルトの帰国後、赤松登志子と結婚するが、『舞姫』(注5)を発表して離婚のサインを送り、弟を連れて家出をするなどの二年(明治21(1888)年〜明治23(1890)年)にわたる一連の異常な行動(その間の特異な執筆活動とその量の多さには驚かされるが)−「舞姫事件」−が鴎外にとって生涯忘れることの出来ないトラウマを与え、後年『扣鈕』、『我百首』、『雁』が書かれました。

また、林先生にとって鴎外とは理知的で近寄りがたい文豪というイメージでありましたが、三年にわたる研究「謎解き」によって、人間くさい若い時代の鴎外像が浮かび上がってきたと言われます。文豪鴎外の人間としての成長に関心を持ち続け、話題作『仮面の人・森鴎外−「エリーゼ来日」三日間の謎』(注6)が書かれました。

扣鈕
南山の   たたかひの日に はたとせの   身のうきしづみ
袖口の   こがねのぼたん    よろこびも   かなしびも知る
ひとつおとしつ   袖のぼたんよ
その扣鈕惜し   かたはとなりぬ
 
べるりんの   都大路の   ますらをの   玉と砕けし
ぱつさあじゆ   電燈あをき   ももちたり   それも惜しけど
店にて買ひぬ   こも惜し扣鈕
はたとせまへに   身に添ふ扣鈕
 
えぽれっと   かがやきし友        
こがね髪   ゆらぎし少女        
はや老いにけん        
死にもやしけん        

注)
扣鈕(ボタン):カフスボタン
エポレット:肩章
ももちたり:百千人
『扣鈕』:明治40(1907)年9月「うた日記」所収 1904年5月25日〜26日南山の戦(鴎外42歳)
               


ファンより花束を
ファンより花束を
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鴎外の長男於莵は「こがね髪ゆらぎし少女」は「エリス」であり、「父にとっては永遠の恋人ではなかったか」と証言し、次女杏奴もこの『扣鈕』を挙げて「ただ一人恋人がいたとすればそれは独逸婦人である」と明言しています。まさに、鴎外の生涯にわたる心の傷を与えたエリーゼが、この一篇の詩の中に二〇年前の姿で金髪を輝かせて髣髴と見えてきます。
(平林清江)

《参考資料》
(注1)平出修:1878−1914 明治・大正の歌人、小説家、評論家、弁護士。
『明星』廃刊後、明治42年に石川啄木、平野万里らと雑誌『スバル』の発刊に力を尽くした。大正3年3月病没、享年37歳。
(注2)森鴎外と『白樺』派−反自然主義四誌合同の画策と挫折をめぐって−渡辺義雄
『信州白樺』第41・42合併号 森鴎外特集 1981年4月
(注3)松本清張著『両像・森鴎外』文芸春秋 1995年1月
(注4)「空車」(むなぐるま):大正5(1916)年7月6日、7日の『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に森林太郎の署名で掲げられた。 『鴎外全集』第26巻 1989年 岩波書店
(注5)『舞姫』:明治23(1890)年1月「国民之友」に発表。鴎外28歳。
(注6)朝日新聞書評委員の佐柄木俊郎氏により「文献調査は確かで説得力がある」として、2005年12月「今年の3点」として推薦される。