147. 柳宗悦とバーナード・リーチ

―国境を越えた生涯の友情―
第61回面白白樺倶楽部開催報告

講師 内海 禎子 氏(財団法人日本民藝館常務理事)
期日 2006年6月9日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

あじさい
あじさい
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我孫子は丘陵の多い町です。文学館脇の小径から北側はすぐに上り坂となり、その斜面にはこの時期、夏草に混じって所々に紫陽花が青い花をつけます。それらの丘陵地は大正当時「弁天山」「天神山」と呼ばれ、若き日の志賀、柳の夫婦が住まいを定めて暮らしました。椎の巨木が聳える柳家跡地(現在村山正八氏邸)からは、今も眼下に手賀沼の光る水面を見ることができます。

内海講師
内海講師
バーナード・リーチ(1887〜1979)が柳家の敷地に窯を築いたのは、1916年(大正5)末のことでした。以後1919年(大正8)5月の我孫子窯焼失に至るまで、リーチはこの地で作陶に励み、多くの名品を生みだしていきます。哲学の思索に耽る柳、エッチングや陶芸の世界を追求するリーチ、二人を結びつけたものは、果たして何だったのでしょうか・・・?今宵は、『日本民藝館』の常務理事内海禎子氏を講師にお招きし、柳とリーチの生涯にわたった交遊についてお話をうかがいました。以下は、氏のご講演の一部をまとめたものです。

柳宗悦とバーナード・リーチとの出会い

バーナード・リーチは、母親が彼を産んですぐに亡くなったため、当時日本に住んでいた母方の祖父母に引き取られ、幼少時を日本ですごしています。イギリスへ戻ってからも日本への想いを払拭できなかったバーナードは、ラフカディオ・ハーンの小説に接したことも大きな契機となって、やがて三ヶ月の船旅の末、再び日本に戻って来ました。1909年(明治42)バーナード22歳、そして日本で出会った『白樺』の人々も皆まだ学習院高等学校の学生、柳は19歳でした。

バーナードは日本で暮らし始めた当初、エッチングを教えることで生計を立てようと考えていました。その彼の教室に出入りし始めたのが『白樺』の青年達でした。中でも語学に堪能であった柳宗悦との親交は深まり、共に芸術論や人生論を戦わせるまでになっていました。

ところが突如彼は日本での生活を引き払い、1915年(大正4)7月中国北京へ移住します。かねてより親交のあったドイツの思想家ウェストハープ氏とともに中国で教育活動をしようと決意したからです。この時バーナードは、日本での生活や芸術などすべてに決別して、新しい人生に踏み出す覚悟をしておりました。しかし芸術家としてのバーナードの才能を惜しんだ柳は、翌1916年(大正5)朝鮮に渡り、李朝の陶磁や文化遺産を見て歩いた後、その足で中国に赴いて北京に暮らすバーナードを訪ねました。柳の書き残した文章によると、西洋人であるバーナードの眼を通して語られる中国工芸の話を聴くことはすばらしい体験だったそうです。しかし一方、バーナードは北京での生活になじめず、苦境の中にありました。柳は、彼に日本に帰る事を勧め、自分が暮らす我孫子の土地を提供したのです。バーナードはその年の秋に日本に戻り、我孫子での作陶に向けて準備に取りかかりました。翌3月我孫子窯は完成。私も先程その跡地を拝見し、ここに彼があの中国風の反り返った屋根をもつ仕事場を造り、制作に打ち込んだのだと思いますと、たいへんな感動をおぼえました。バーナードにとってこの我孫子の地に窯を築いたことが、陶芸家としてその後の人生を送った彼のスターティング・ポイントになったと私は思っております。こうしてバーナードと柳の二人が、“生涯で一番幸せな充実した時期だった”と回想する我孫子での生活が始まりました。
 

我孫子での生活と浜田庄司

我孫子の仕事場 式場隆三郎編バーナード・リーチ建設社1934
我孫子の仕事場 式場隆三郎編
バーナード・リーチ建設社1934
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彼は月曜から金曜までを我孫子で過ごし、週末は東京に戻って家族と過ごすというスタイルをとったようです。仕事の合間には、柳の妻兼子夫人がお茶の用意をし、バーナードが「ヤナギーッ、ティー!」と声をかけ、近くに住む志賀直哉も時々その集いに参加したことが想像されます。バーナードの経済的な面についても柳は面倒をみています。神田で個展を開き、彼の作品を売る手配などをしました。神田の画廊で開かれた個展を見て感動し、我孫子までバーナードを訪ねて来たのが浜田庄司でした。駅からは当時人力車があったそうですが、おそらくそのような交通手段を使ったのでしょう。若い浜田を迎えて扉を開けたのが柳でした。ここにまたひとつの希有な出会いがあったわけです。
 

柳宗悦とヰリアム・ブレーク

柳宗悦夫妻と京城にて 大正9年前掲書
柳宗悦夫妻と京城にて
大正9年前掲書
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志賀もいる、武者もいる、理想に燃えた青年達によって西洋の美術や文化についての討論がなされたものと思われます。柳は25歳で「ヰリアム・ブレーク」という本を書いておりますが、あの頃イギリスでもヰリアム・ブレークは異端の詩人、画家として社会には受け入れられておりませんでした。ところが柳はブレークに興味を持っていたのです。同じようにブレークを愛好していたバーナードとの間に、当然様々な議論も行われたことでしょう。

日本民藝館
日本民藝館
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「日本民藝館」には一般公開されていない書庫があるのですが、そこに柳の集めたブレークに関する書物など、おそらく「丸善」から買い求めたものでしょうが、2000冊の英文の蔵書があります。さらに驚くべき事に、その本を開いてみると、所々に書き込みが、たとえば“This is wrong”(これは間違い)などとあるのです。柳がそれらの本全てに眼を通していたことがわかります。このようにして練られた思索は、やがて700ページに及ぶ「ヰリアム・ブレーク」という著作になって結実しました。実は2年前京都大学において【William Blake in the Orient】という国際会議が開かれたのですが、そこで40本程のブレーク研究者の論文が発表されました。そしてなんと40本のうち8本が「Blake and Yanagi」という論文だったのです。柳とバーナードとの友情は、柳の代表的な著作物を生み出し、それは現代の学会にも影響を与え続けているということです。

イギリスでのバーナード・リーチ

バーナードはやがてイギリスへ帰り(1920)、セント・アイヴスに窯を作ります。その時彼に同行し、窯作りに協力したのが浜田です。セント・アイヴスはロンドンから電車で5時間もかかる田舎で、バーナードにはパトロンもいませんでした。当時ロンドンの近くには彼のライバルともいうべき陶芸家がいて、ロンドンの市場に次々と作品を送り出し、評価を得ていたのです。彼はあせりながらも歯を食いしばって耐え、作陶を続けます。その結果、今世紀イギリス工芸におけるもっとも偉大な作家として、バーナードはラスキン、モリスを超えるほどの評価を受けることになりました。イギリスでは、リーチ派はウェッジウッド派と対照的に見られ、非難を受けた時代もありましたが、バーナードは柳の提唱した“用の美”の精神を守り続け、作風に生かしたのです。すなわちバーナード・リーチはイギリスにおける民芸運動を遂行したと言えるでしょう。その手助けをしたのが浜田、その基礎を築いたのが柳宗悦、しかもそれらすべての原点がここ我孫子にあったということだと思います。

地蔵菩薩 木喰 日本民藝館
地蔵菩薩 木喰 日本民藝館
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手仕事の美しさに着目した民芸運動の思想と、そこに生まれた人間関係のすばらしさが、今世紀の工芸の世界を作っていった、そのように思えてなりません。柳の哲学、また国境を超えてつながった柳とバーナードとの友情を、争いの絶えないこのような時代にこそ考えていきたいと思います。

その後内海氏は、「日本民藝館」大正の昔から現代に至るまでの民芸運動の流れについて、世界を視野においてお話下さいました。その思想や歴史の源流がこの地にあったことを思うと、厳粛の思いに打たれます。

リーチは1920年、日本を去る直前に次のような詩を残しています。

私は東と西の結婚のまぼろしを見た。
そして、はるかな時の会堂の先に、
子供のような声のこだまを聞いた。
どの位?  どの位長く?

東洋と西洋とがその違いを超えて結びつくことを願ったリーチでしたが、願いはすでに柳との友情において成し遂げられて、豊かな実りを結んでいたように思えます。
(西村さち子)