151.志賀直哉『和解』を読む

第62回面白白樺倶楽部開催報告

講師 瀧田 浩氏(二松学舎大學専任講師)
期日 2006年7月14日(金)19時より
場所 当館コミュニティールーム

プロローグ

瀧田講師
瀧田講師
クリックで拡大
面白白樺倶楽部開催当日の夕刻、我孫子地方は一天にわかに掻き曇り、雷雲立ち込め稲妻が走り雷鳴はとどろき、ついには我孫子駅に落雷し常磐線が全面運休となりました。また電話もしばらく通じなくなり緊急事態となりましたが、遠くからのお客様は欠席のやむなきにいたるなどで、30分遅れの開幕となりました。
本日の講師瀧田先生は、二松学舎大學4年生のゼミで『和解』をテーマに、舞台になった我孫子や東京の縁のあった方の話を聞いたり、写真を撮ったりした一次情報にこだわって調べた事柄を基に注釈を付ける指導をされています。昨年、今年と二年間にわたり、学生さんが当文学館を訪ねたことが縁になり本日の機会を得ました。昨年の「志賀直哉我孫子転居90年企画展」では、瀧田ゼミの学生さんに多大なご協力をいただき、ありがとうございました。瀧田先生ご自身、我孫子(湖北)の出身であり大學のゼミ生との繋がりがご縁で、本日、講演をしていただく運びとなりました。
以下講演の概要をまとめたものです。

1.場所の力

熱心に和解を読む
熱心に和解を読む
クリックで拡大
作家の池澤夏樹氏は「場所に力がある。」「場所には、それまでの歴史、生き方の集積など固有の力がある。」と言っていますが、志賀直哉自身は、我孫子について辛口であり、あまり良くは言っていません。我孫子の人に対する特別な思い入れ、あるいは我孫子固有の土地の力を見出してはいなかったようです。末弟子といわれています阿川弘之氏も、「我孫子が舞台になっている作品のどれを読んでみても、出入りの職人や家の女中下男以外、土地の人間は登場しない。直哉にとって、気に入っているのは、手賀沼を望む我孫子の風光であって、人では無かった」と書いていますが。はたしてそうであったのでしょうか。『和解』は、我孫子を舞台に、長女慧子の<死>を悲しみ、次女留女子の<生>を喜び、志賀直哉自身と目される主人公順吉の家族、友人、医療関係者、使用人、我孫子の近隣住民が登場し、都会の<東京>と田舎の<我孫子>を対比し、我孫子の場所の力を汲み取り、力強く書かれた素晴らしい作品だと思います。志賀直哉も気づいていない我孫子の力を検証したいと思いますと冒頭に述べられました。

2.『和解』発表の1917(大正6)年の時代背景

最初に、『和解』発表までの時代背景について検証されました。大正2年12月下旬、夏目漱石より武者小路を介して「東京朝日新聞」に連載小説の執筆をすすめられ承諾しますが、新聞小説の執筆意の如く進捗せず、大正3年7月中旬上京、漱石を訪ね執筆を辞退し、松江に帰ります。大正3年4月「児を盗む話」を「白樺」に発表したのち、漱石に不義理をして困らせたりし、以後三年余りの発表休止期を持ったのでした。その後漱石が大正5年12月9日胃潰瘍を悪化させ、49歳の若さで世を去ったこと。また同じころ武者小路実篤が我孫子に引っ越してきたことなどから、実篤の強い影響(励まし)を受け、創作活動を再開し、1917(大正6)年5月雑誌『白樺』に「城の崎にて」を発表、以降、6月「佐々木の場合」、8月「好人物の夫婦」、9月「赤西蠣太」、そして、10月、本日のテーマ『和解』を発表しました。この1917年は、第一次世界大戦が全体戦争に突入し、ロシア10月革命の緊迫した模様が新聞報道されました。翌年、1918年には米騒動がおこり、生活難にあえぐ民衆の不満に火をつけ、全国に広がっていましたが、志賀直哉の作品には身辺雑記風のものばかりで、これらの緊迫した社会一般情勢などは登場しません。

3.『和解』関連略年譜

1914(大正3年12月21日)、勘解由小路資承(かでのこうじすけこと)の娘康子(さだこ)と結婚。東京麹町元園町の武者小路家で式が行われました。列席者は当人たちの他に実篤夫妻と勘解由小路の両親だけ、父直温(なおはる)はこの結婚に賛成せず、父子の不和はさらに悪化します。

1915(大正4年2月20日)、直哉満32歳の誕生日に婚姻届を京都府葛野郡衣笠村役場に出し、3月父の家より離籍、一家を創設します。妻康子が神経衰弱になり、療養のため鎌倉雪の下に移り、一週間後、妻の転地療養をかねて5月赤城山大洞(だいどう)に移ります。高地の寒い冬を前に、9月柳宗悦にすすめられて我孫子に移住(32歳)して初めて自分の家を持つことになりました。                    
1916(大正5年)『和解』に描かれる「昨年」、6月7日長女慧子(さとこ)出生。しかしわずか56日後の7月31日に死去。 12月武者小路実篤が小石川から我孫子に移住(31歳)、そしてバーナード・リーチが月曜から金曜日まで柳の家で暮らすようになります。(29歳))

1917(大正6年)『和解』に描かれる「今年」、7月23日次女留女子(るめこ)出生。8月30日長年不和であった父直温と和解がなされます。

1918(大正7年)、9月、武者小路が「新しき村」の発会式を行い、我孫子から日向へ旅立つ(33歳)我孫子在住約2年間。

1919(大正8年)5月、リーチの我孫子窯消失し、我孫子を去る。我孫子在住約2年半。6月2日長男直康(なおやす)出生するも7月8日生後37日で死去。

1920(大正9年)1月、「小僧の神様」発表、5月31日三女寿々子(すずこ)出生。
1921(大正10年)1月、「改造」に「暗夜行路」前編連載開始。3月柳宗悦家族が我孫子から東京へ転居、我孫子在住約7年。8月16日祖母留女死去(85歳)。

1922(大正11年)1月、「暗夜行路」後編連載開始。1月19日四女万亀子(まきこ)出生。

1923(大正12年)3月2日京都へ移住。我孫子在住、約7年半。この間一男四女を授かるも、うち二人が幼くして亡くなっています。9月1日関東大震災が発生するもそれを予知したかのごとく東京をさけ被災をまぬがれます。

4.『和解』構成の枠組みと重心

『和解』構成の枠組みと重心
『和解』構成の枠組みと重心
クリックで拡大[別ウィンドウで開きます]
以上の、時代背景、関連略年譜を考察し、表により『和解』構成の枠組みと重心について、解説していただきました。

「和解」の初出は1917(大正6)年10月で、雑誌『黒潮』に発表されました。1918(大正7)年1月刊行された、バーナード・リーチの装丁による短編集『夜の光』(新潮社)収録時に、初出時にはなかった留女子の出産の場面が見事に描かれ、出産のさわやかな感動は、なにかに感謝したいような気分を起こさせています。
と同時に第13章以降への感動的な場面への、導入伏線としておおきな役割を付加したと見ることも出来るでしょう。この10章が付け加えられたことにより、全体の構成の意識的な変革がなされ、大変気持ちのいい状態で和解に導いているといえましょう。小説の幕開けは、第一子の一周忌における亡き実母と祖父との対話で始まり、留女子の誕生をへて、亡き実母の23回目の祥月命日にクライマックスである父との和解を迎えています。そして慧子の死去<死>と留女子の誕生<生>であるなど本編の主要なモチーフは、どちらも我孫子が重要な舞台としての出来事であるといえます。

5.エピローグ

我孫子には土地の力があった
我孫子には土地の力があった
クリックで拡大
『和解』登場人物の親しい友人たちがイニシャル表記であるのに対し、我孫子の使用人たちは固有名詞が用いられていることが注目されます。自分の子どもの<生><死>を通じて、主人公「順吉」にとって外部の存在だった庶民や地元住民との交流が自然と発生していることが随所に読みとれます。我孫子は、裸足で駆けたぬかるみの路や、懐妊をうながした<性>の環境であり、同時に<死>を痛切に感じさせた沼のほとりは、「順吉」を<都会>から解き放ち、<自然>の中に取り込んでいます。まさにそうした場面に、我孫子の土地、我孫子の場所の力が、遺憾なく発揮されているのではないでしょうか。

以上瀧田先生はゼミ学生との共同研究の成果と、数多くの資料を随所に活用されての講演は、当日の参加者にとって、小説「和解」とその舞台背景となった地元我孫子との深いつながりと、志賀直哉の深層心理にもせまる思いを、改めて学ぶ大きな契機となったことと思います。
瀧田先生におかれましては、明快で、懇切丁寧なお話をいただき、本当にありがとうございました。今後ますますのご活躍をお祈り申し上げます。
(矢野 正男)