153.「濱田庄司とバーナード・リーチ」

第四回企画展記念講演会

第63回面白白樺倶楽部開催報告

講師 浜田琢司氏(日本学術振興会特別研究員:学術博士)
期日 2006年8月11日(金)18時30分より
場所 アビスタ第2学習室

濱田先生
濱田先生
第四回企画展「バーナード・リーチ展」の記念講演会は、4回連続で開催されることになりました。第一回は我孫子に窯を築き、のち世界の陶芸家として活躍したバーナード・リーチとともに英国に渡り、ともに陶芸家として大成した濱田庄司とリーチについて講演をいただきました。講師は、濱田庄司のお孫さんにあたられる濱田琢司先生で、祖父としての濱田庄司とバーナード・リーチとにちなんだ、数々の興味深い、楽しい秘話・エピソードをおうかがいいたしました。当日の参加申込者が定員をはるかに超過し、お断りのやむなきにいたりましたことを、心よりお詫び申し上げます。
以下現在フィンランドに滞在して、研究生活中の濱田先生より、ご自身がまとめていただいた講演概要がメールにて送信されてきましたので、当日の写真を一部加えて掲載いたします。

 

 

二人のであった我孫子窯
二人のであった我孫子窯
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バーナード・リーチと濱田庄司との関係は,とても長く深かった。大正半ばの出会いに始まるその関係は,1978年の濱田の死の時まで変わることなく続いた。その出会いの意味は,もちろんリーチにとっても,濱田にとっても少なくなかったと思うが,作陶のスタイルを決定づけたという点からみると,濱田にっての方がより大きな意義を持っていかかもしれないと思えてくる。おそらく濱田にとって,リーチとの出会いから得たものは,後に柳宗悦らとともに推進した民芸運動における経験以上に大きかったはずである。我孫子は,そんな二人のまさに出会いの場であったのである。

 

満席立ち見?の会場
満席立ち見?の会場
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濱田庄司に関する年表や彼が書いたものをみていると,リーチとは,1918年の神田流逸荘でのリーチの個展会場で出会って話をしたとある。ところがリーチの方をみてみると,1919年,濱田から会いたいとの手紙をもらい我孫子の柳邸であったとある。つまり前年に会場で話しかけてきた青年濱田のことをリーチはきちんと認識していなかったということなのだろうと思う。京都陶磁器試験場の一技手であった濱田が個展会場で声をかけたくらいでは,リーチの記憶には残らなかったということだったのだろう。だから二人がはっきりと互いを認識しての交流が始まったのは,我孫子であったのである。

我孫子での出会いの後,濱田は時折,リーチの仕事を手伝っていた。日本で陶芸を始めたリーチは,高い芸術意識を持っていたが,陶芸(窯業)技術に関しては素人に近かった。一方,濱田は東京高等工業学校(現・東京工業大学)で窯業科に学び,その後も京都の試験場に勤めていたので,特に釉薬に関しての専門知識を持っていた。だからはリーチにとって濱田は,英語ができて,かつ陶芸の専門知識を持った最初の知人とであったのである。そんな事情もあり二人はすぐに友人関係となり,さらにその関係は深くなっていった。そして1920年,濱田は帰国するリーチとともに,彼の助手として渡英し,イギリスでの仕事を二人で始めていくのである。1923年末まで,およそ3年半のイギリス滞在は,濱田にとって,極めて重要な意味を持った経験だったといえる。

益子濱田邸航空写真
益子濱田邸航空写真
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リーチと濱田 その1
リーチと濱田 その1
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リーチと濱田 その2
リーチと濱田 その2
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「助手」として渡英した濱田は,ロンドンでの最初の個展で陶芸家としてデビューするし,また帰国後の栃木県益子への移住を決定づけるような田園や田舎への志向も,イギリス時代の影響が大きい。濱田が益子に築いた極めて日本的な居住環境は,そこかしこにイギリスからの影響を見せるものでもあった。また何より濱田は,イギリスでの生活から東洋あるいは日本を相対化して見る眼を得た。日本的なものを,外部者であるかのように対象化したうえで自作に盛り込んで行くのが,濱田のスタイルの一つであろうかと思うが,そのような方向性を,彼はイギリスで見つけたのである。 それ故,陶芸家としての濱田庄司にとって,イギリス,そしてその遠因としてのリーチとは,何よりも大きな存在であったのである。

こんな風にイギリスの影響を受けつつ濱田が築いた益子の住まいには,リーチも数回やってきている。時にともに作業をし,時にともに語らい,また益子の職人・作家を交えての会合を持つこともあった。益子で共有した時間もまた,かつてのイギリスでのそれほどではないにしても,二人にとって重要な時間であったことは想像に難くない。

祖父の一字をもらったのは私だけ
祖父の一字をもらったのは私だけ
1978年1月の濱田の死去の翌年,柳,富本,河井,濱田と,民芸運動の創始に関わった面々の最後をすべて見届け,リーチもこの世を去った。作品の一ファンとして,あるいは助手として始まった二人の関係は,まったく気兼ねのない,完全に平等な,とても深い友情関係として互いの最晩年まで続いたのである。

(濱田 琢司)