156.「祖父バーナード・リーチのこと」
第四回企画展記念講演会
第65回面白白樺倶楽部開催報告

講師 フィリップ・W・リーチ氏 (陶芸家)
通訳 内海禎子氏(日本民藝館理事)
期日 2006年10月7日(土)15時30分より
場所 JR我孫子駅南口けやきプラザふれあいホール

今回は第4回企画展の記念講演会のメインイベントとして、バーナード・リーチの孫、3代続いた陶芸家として活躍中のフィリップ・リーチ氏に、イギリスから我孫子にお招きしてご講演をいただきました。

40枚近くの貴重な画像をみながら、祖父バーナード・リーチの若い頃(20歳台)の印象と、1909年日本訪問後のこと、1920年濱田庄司とともに、英国帰国後のバーナードの陶芸家としての生き方、考え方、また自分のバーナードに対する若い頃の思い出として、日本からのお土産、祖父からの助言や支援、結婚式に出席してもらったこと、祖父バーナードに対しての彼のファミリーとのかかわり、人生観などなどまことに盛りたくさんの内容を、予定の時間を大きく越えて、400名近い参加者に熱い思いを語っていただきました。本人も日本訪問6回目という大変な親日家であります。

講師のフィリップリーチ
講師のフィリップリーチ
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また講演は英語で行われ、フィリップ・リーチ氏と以前から懇意にされていました、日本民藝館の内海禎子理事に、懇切丁寧な通訳をしていただきました。

以下は、フィリップ・リーチ氏のスライドを使った当日の講演概要のまとめとして報告いたします。
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1.バーナード・リーチの思い出

 
祖父のバーナード・リーチ 【スライド1】 祖父のバーナード・リーチです。彼は一体誰?どうして陶芸家としてこんなに有名になったのでしょう。その訳を私は知りませんでしたが、彼が老年になってから私も彼をもっとよく知るようになりました。
バーナード・リーチの両親 【スライド2】 彼の両親です。彼は1887年に香港で生まれました。悲しいことに母親のエレナは彼が生まれた時に亡くなりました。祖母は京都で仕事を始める予定だったので、彼を日本へ連れて行きました。彼の人生の最初の3年間は日本から始まったのです。
英国バーモント大学のクリケット・チーム 【スライド3】 彼は1903年には英国バーモント大学のクリケット・チームの一員でした。彼は生涯を通じてなかなかの雄弁家で友人との討論にも、大勢の人の前での演説にも秀れていました。この学生時代に雄弁の術を学んだと思われます。
継母からの手紙 【スライド4】 その後彼はロンドンの美術学校に行こうとするのですが、彼の継母からの猛烈な反対に遭いました。スライドはその手紙です。
“美術を専攻するなんて馬鹿げたことです。貴方は気が狂っています。気晴らしとかちょっとした小遣い稼ぎなら許せますが、父から独立して生計の手段とするのはもっての外です。“
バーナード・リーチ自画像 【スライド5】 1903年に彼が描いた自画像です。ここに既に彼が人生において何を目的として生きて行こうかという自信が表れているように見えます。彼の師トンクスは物事を正確に見て描くことを教え、彼も生涯厳格に守り通しました。
バーナードの従兄弟のウィリアムズの素描 【スライド6】 バーナードの従兄弟のウィリアムズの素描です。このとき、彼は生涯に初めて描くこと、芸術、そして人生に対して興奮と高揚の気持ちを感じました。1904年彼は芸術の世界に強く惹かれるものを感じましたが、彼の父の死に遭遇して心ならずも1906年生活の糧のためにロンドンの香港上海銀行に就職しました。

講師と通訳の内海禎子氏
講師と通訳の内海禎子氏
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2.バーナード・リーチの生き方

ホイッスラー - ノクターン 【スライド7】 この絵はバーナードの考え方に特に影響を与えたホイッスラーのものです。彼は東洋的な左右対称でない構図や趣味のよい表現力を持っていると見ています。静寂やテムズ河の夕暮れの美しさを表して、日本の版画の影響が見て取れます。
St Luke Chelsea 【スライド8】 彼は銀行を辞めて1907年ロンドン美術学校に入ります。このエッチングはSt Luke Chelseaを力強い構図で描いた彼の初期の作品です。彼は幅広い読書を行い、犬と散歩をしながら田舎の風景の描写を行っています。
初めて描いて出品した油絵 【スライド9】 1907年金曜クラブのメンバーのとき彼が初めて描いて出品した油絵です。新聞の批評が素晴らしく若いバーナードを力づけたものです。この絵の中に落ち着きと静かな力強さが認められます。
彼は人生について考え、問いただし、この頃から東洋の美術を理解するために日本に行こうと決心し、1909年に向かいます。
富士山の絵 【スライド10】 彼が描いた富士山の絵です。当時日本は40年前に門戸を開いた所で、人々は西洋や作家や芸術家について色々知りたいと熱心でした。バーナードは東洋を知ろうと努めていました。彼の疑問に答えを見つけるのはそう難しくないように思われました。
バーナードの自画像 【スライド11】 バーナードの自画像です。日本に来るというのは彼の人生のターニングポイントであり、希望と不安との全てのことが入り混じった目をしています。彼は日本との生涯の付き合いをスタートし、生涯変わらぬ友達を得、陶芸家として出発することになるのです。
バーナードの妻になる人(Muriel)のスケッチ 【スライド12】 1915年作バーナードの妻になる人(Muriel)のスケッチです。彼はMurielに日本に来るように熱心に頼み、結婚して京都で新居を200ポンド(当時の8千円位)で購入し住むことになりました。
富本賢吉とバーナード 【スライド13】 富本憲吉とバーナードの写真。1910年日本のバーナードを訪問しようとしていた友人のレジー・タービーは日本行きの船上で富本と友達となる。レジーは富本がバーナードのいい友人になると思い日本でバーナードに紹介すると、忽ち意気投合し彼の生涯の友人となりました。
柳宗悦 【スライド14】 これは柳宗悦を描いたものです。1911年柳はバーナードのエッチングクラスで彼と初めて会い、彼の教え方と描き方を見て彼の資質の高さと成長の可能性を高く評価しますが、それには激励と援助が必要だと考えます。柳は既に白樺派の一員であり芸術評論家であり哲学者でした。彼らは生涯の友人となりました。
祖父のバーナード・リーチ 【スライド15】 尾形乾山のポートレートです。バーナードは初めて知った陶芸の世界で乾山に入門し仕事場で初めて陶器を作る基礎を学びました。富本は最初は通訳としてバーナードと乾山のもとに通いましたが、その内自分も一緒に陶芸を学びました。
祖父のバーナード・リーチ 【スライド16】 1913年初期の楽焼です。1914年東京で既に個展を開いていますが、出展作品はエッチング、油絵、初期の楽焼でした。彼はこの時期既に自分の作品が日本の社会に受け入れられるか疑問視しています。
彼の若い家族の写真 【スライド17】 これは日本での彼の若い家族の写真です。1915年彼は最初の個展に不満を抱いて北京に行くことにしました。が、1916年柳が北京に行ってバーナードを説得して我孫子に戻って来させ、そこで陶芸のチャンスを与えました。我孫子には芸術家と作家の集団があり、彼は初めて仕事場と窯を持つことが出来ました。
我孫子の窯 【スライド18】 我孫子の窯。バーナードが初めて窯に火を入れたときのことを柳は以下のように書いています。“8月の暑い夜月は輝き煙突からは黒い煙が夜空に昇っているとき、バーナードは頭から足迄汗まみれでいた。彼は何度も窯を覗き込んでいたが、40時間後の作品の結果は惨めなものであった。“
祖父のバーナード・リーチ 【スライド19】 バーナードと濱田が1961年に東京で会っているときの写真。彼らが最初に会ったのは1919年の個展会場でした。濱田は釉薬の研究家でしたが、バーナードは彼を英国に連れて行き陶芸家としてスタートさせ、日本のみならず世界の陶芸家になりました。バーナードの生涯の友人になります。
我孫子の窯を描いた湯呑 【スライド20】 我孫子の窯を描いた湯呑です。柳はバーナードに対する暖かい眼差しで言っています。“彼ほど外人の中で日本の心を理解して生活したものはいない。“
1917年バーナードのの作業小屋は火事で焼け落ちてしまいました。
リーチ・ポタリーの銘版 【スライド21】 リーチ・ポタリーの銘版。
グリフォン図大皿 【スライド22】 グリフォン(神話に出てくる怪獣)図大皿。

400名近い参加者の講演会場
400名近い参加者の講演会場
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3.バーナード・リーチの哲学

朝鮮の茶碗 【スライド23】 朝鮮の茶碗。―バーナードは西洋の人達に東洋の思想を紹介しようとしました。
日本の友人と緊密な関係を保ちつつ、社会の中における工芸の価値がどの辺にあるのかを見極めようとしました。彼は茶道における茶碗に究極の芸術の姿を見出しました。
― 一方で西洋と東洋において工業製品が世の中に段々増えて来て手作りによる作品が減って来ているということを感じていました。
―彼は陶芸家にとって哲学が重要であり、それはむしろ東洋からやって来ると考えました。
―人間は機械にばかり頼っていると人生の中での何かを失うと彼は考えていました。陶芸家は信念を持ち、自由な想像力と直感の力を養わなければならないと信じました。
―彼は日本から何を学んだかと言うと、美を表現する方法でした。
それは没個性であること、即ち作品は作られるものではなくて生まれるものである。
自意識を持ってはいけない。
作品は単純で作意に走らないこと。
正直であること。
美しいこと。
鮭が飛び跳ねている図柄の壷 【スライド24】 鮭が飛び跳ねている図柄の壷です。彼の最高傑作のひとつです。
陶工の本 【スライド25】 陶工の本。1940年に書かれたもので陶芸家のバイブルになったものです。美しさとは何か、陶芸する者の心構えとか、バーナ−ドの哲学が述べられています。印象的な一句は“技術は目標に向かって重要な手段ではあるが目標そのものではない。“
祖父のバーナード・リーチ 【スライド26】 1952年ダーティントンでの国際会議に出席したときの柳宗悦、バーナード・リーチ、濱田庄司です。彼らは亡くなるまで理解と尊敬を持ち続け、その友情こそが東洋と西洋を結びつけたのです。

4.バーナード・リーチの子供の頃の思い出

バーナード・リーチの家族 【スライド27】 バーナード・リーチの家族。前列左から2番目の3歳の男の子が講師本人のフィリップ・リーチ。
講師本人と姉妹 【スライド28】 講師本人と姉妹。後に見える家がリーチの工房。
窯に火を入れるバーナード・リーチ 【スライド29】 窯に火を入れるバーナード・リーチ。奥が登り窯。
断崖の上へのピクニック 【スライド30】 断崖の上へのピクニック。
居間でのバーナード・リーチ 【スライド31】 居間でのバーナード・リーチ。
バーナードの壷「生命の木」 【スライド32】 バーナードの壷「生命の木」
4つのタイル 【スライド33】 4つのタイル。バーナードが描いた作品。

5.わが親戚のバーナード・リーチへの思い出

ジャスミン叔母 【スライド34】 ジャスミン叔母。バーナードの只一人残っている娘で現在86歳。
講師(フィリップ・リーチ)の妹、スーザン 【スライド35】 講師(フィリップ・リーチ)の妹、スーザン。
従兄弟のジョニー・リーチ 【スライド36】 従兄弟のジョニー・リーチ。バーナードの長男の長男である。
祖父のバーナード・リーチ 【スライド37】 デービッド・リーチ(バーナードの長男、ジョニーの父)が1930年リーチ工房で仕事をしている写真。デービッドはリーチ工房の設立と経営に多大な貢献をしました。

6.まとめ

ハートランドの断崖 【スライド38】 私(フィリップ)が住んでいて散歩する「ハートランドの断崖」の 写真を見ながらこの講演の結論を言います。

私は過去10年程の間に何回か日本に来るようになって初めてバーナードが日本に惹かれたのが何か分かるようになりました。私自身も陶芸家であるが、まだまだバーナードの哲学的な所は理解してません。

バーナードが我々に残したものは何か?美に対する東洋的な哲学 は東洋にも西洋にも今日でも生きていると言えるか。時を経ても美に対する妥協のない基準はまだ重要な地位を占めている。我々は電化の又虚構(情報)の世界に移りつつあるが、手作りの作品は益々貴重なものになって来ている。手作りの作品の中に我々は血が流れるものを感じその美を称賛し受け入れるのです。

バーナードは生まれつきに「東洋と西洋との出会い」に立会い、そして東洋と西洋との間にあって陶芸家の役割を変えるのに重要な影響を与えたと私には見えます。

私は祖父バーナードを単なる絵描きとか、陶芸家とか、作家とかで見るのではなく、抑えきれない人間精神の持ち主として記憶したいと思う。
バーナードの次の言葉でこの講演を終わりにしたいと思う。これは、彼の墓碑銘にも書かれているものです。

巡礼文皿 【スライド39】
東洋と西洋の結婚の幻を私は見た
時間という大きな広間の遠くの方から
私は子供のような声のこだまを聞いた
How Long(いつ)? How Long(いつ)?


講演会終了後のフィリップ・リーチ氏歓迎会
講演会終了後のフィリップ・リーチ氏歓迎会
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(真形久視)