159.奈良高畑の志賀直哉旧居−保存のための草の根運動−
第66回面白白樺倶楽部開催報告

講師 中村一雄氏 (日展会友・光風会会員・奈良県展審査員)
期日 2006年11月10日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

はじめに
『奈良高畑の志賀直哉旧居−保存のための草の根運動−』の著者で洋画家の中村一雄氏は、志賀直哉旧居の西隣にお住まいです。今から30年ほど前のある日、志賀直哉邸取り壊しおよび改築計画の知らせを聞き、直ちに保存のための市民運動を始めました。当時のことでしたから、運動に対する住民の意識は低く、大変なご苦労をされました。が、ついには邸の全面保存にまで持ち込み、運動を成功に導きました。この間中村氏を支えたのは、高畑サロンの一員であった氏の父上中村義夫画伯(注1)と、“隣のおじさんとして親しんだ志賀さん”への熱い思いだったと言われます。それでは、氏の講演要旨を三つの項目に分けて報告いたします。

講師の中村画伯
講師の中村画伯
「1.文豪志賀直哉邸保存運動の展開」では、氏が保存運動に関わった必然性とその経緯について記しました。次に「2.高畑の志賀直哉旧居」では、『暗夜行路』は中村氏にとって殊の外感慨深い作品、つまり“隣の家で書かれた『暗夜行路』”への深い愛着が、保存運動中の氏の心の拠り所となったことなどについて、述べたいと思います。最後の「3.文化遺産を後世に伝えるということ」では、奈良市の登録文化財となった旧居の問題を通して、近代文化財の今後のあり方、活かし方について考察された氏の貴重な意見に、耳を傾けていただきたいと思います。

1.文豪志賀直哉邸保存運動の展開

1)住民に知らされなかった志賀邸の取り壊しおよび改築計画に憤る
それは昭和50年6月6日のことでした。昭和28年以来志賀直哉邸は、飛火野荘という厚生年金の寮となっていましたが、たまたま中村氏の友人がそこに泊まった時、邸の取り壊し計画の話を聞いて氏に知らせてくれたのでした。このときすでに、奈良県の風致審議会では、取り壊しもやむなしとの結論を出していたのに、隣人の中村氏にさえ知らされずにいたのです。“我々住民は常にこうした偶然の出来ごとからしか、真実が知らしめられないのか”と氏の怒りはふつふつと沸き上がり、かつて隣りに住んでいた“志賀さん”の邸は、何が何でも保存しなければと思い立ちました。最初は、氏一人でもこの運動をしよう、いや私でなければこの運動は出来ないと直感したのでした。なぜなら、中村氏の父上である中村義夫画伯が、昭和3年奈良高畑大道町(志賀直哉邸の西隣)にある、足立源一郎画伯(注2)邸を買い、アトリエとしたことから、隣にある志賀直哉邸のサロン(後述)に集う一人となられ、志賀さんとは言わば裏木戸のつきあい(注3)をされた、大変親密な隣人同士であったこと。又思えば不思議なことに、氏自身大学卒業後就職した勤務先を画家になるべく辞めたのが、39歳の時であり、40歳でこの保存運動が起こったことも、親子二代にわたる“志賀さん”との深い縁を感じざるを得なかったからで、ありました。

2)色々な人の力を集めた草の根の保存運動が成功する
昭和50年12月に7、8人で始めた、この文豪志賀直哉邸保存運動は、やがて奈良における市民運動のはしりとなり、プロの運動家やイデオロギーの介入をさせずに、全くの素人だけでやり通した(最終的には3〇、〇〇〇名集めた署名活動や募金運動、テレビ・新聞取材、厚生省(当時)への陳情等)3年間にわたる、文字通り草の根の保存運動となりました。昭和52年10月には、奈良学園が買収し全面保存成立、昭和53年11月、奈良文化女子短期大学のセミナーハウスとして一般に公開され、現在に至っています。

人を突き動かすエネルギーは感動
人を突き動かすエネルギーは感動
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色々な人々が力を寄せてくれたからこそ、運動が成功したといえるのです。そして、ひとりひとりの純粋な力のすばらしさに気づいたこと、そのことを30年経過した現在も、氏や運動に関わったすべての人々が誇りにしています。
「人を突き動かすエネルギーは感動、つまりそれがモティーフである」と、志賀文学がそうであるように、この保存運動のありようも同じ精神に貫かれていたことを、どうか知って欲しいと氏は熱く語りました。

当日参加の「我孫子の文化を守る会」現会長三谷和夫氏
当日参加の「我孫子の文化を守る会」
現会長 三谷和夫氏
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ふりかえって、我孫子弁天山志賀直哉旧居跡地保存運動も、我孫子市民有志による会(「我孫子の文化を守る会」当時会長故兵藤純二氏)が結成され、1万数千名の署名を集めて保存が決定されたという、経緯がありました。現代に生きる人々が50年、100年の後世に残すべく、やむにやまれぬ気持ちからはじめられたもので、奈良高畑の保存運動とほぼ同時期に起こったということは、なにか深い不思議な縁を感じさせられます。

2.奈良高畑の志賀直哉旧居について

1) 土地購入にまつわる直哉のエピソード
昭和2年当時、直哉は奈良市の森田という骨董店で、藤原初期名作の木彫り聖観音像を見つけました。値段は三千円、同行した谷崎潤一郎が買わなければ、自分が買おうとおもったが、谷崎に買われてしまいました。かねてより、『東洋美術図録』をつくりたいと願っていた直哉はそれを悔しく思い、代わりに、奈良に土地を求めて、家を建てようと決心しました(注4)。それが、現在の高畑の志賀直哉旧居の地なのです。志賀直哉は、この435坪の土地を購入し、自ら設計し、京都の数寄屋大工下島松之助に、その建築を依頼しました。家は135坪の豪華な建物で、直哉は昭和4年4月から同13年4月上京するまでの9年間、ここに住みました。

2) 奈良高畑時代の直哉の創作活動 ― 隣の家で書き上げられた『暗夜行路』
奈良で完成した「暗夜行路」全巻本
奈良で完成した「暗夜行路」全巻本
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高畑時代の創作活動で特筆すべきことは、昭和12年4月に約9年間休載していた『暗夜行路』後編の最終部分を、一挙「改造」に発表し、17年にわたった唯一の長編小説が完成したことと言えます。その後、昭和18年11月には、座右宝刊行会より豪華一冊本『暗夜行路』(注5)が刊行されました。この豪華本『暗夜行路』は、直哉から中村義夫氏に贈呈されています。昭和18年12月24日付け康子夫人宛のはがきには、

「それから中村義夫君に『暗夜行路』一冊、丁寧に荷造りして書留で早速送るやう。」という記述(注6)が見えます。

一方、これに呼応するように、中村氏の著書には

「子供の頃だったから、志賀さんが日本の文豪だということも分らず、たゞ隣りに住む“おじさん”という程度だった。それだけ身近かに感じていたのだろう。後年、その方が日本文学の最高峰『暗夜行路』を、隣りの家で書き上げられたということを、父から聞いたのである。昭和19年に、至れり尽せりの贅沢を極めた『暗夜行路』の初版本が座右宝刊行会から出版された時には、父にも署名入りでいただいている。今では家宝である。この本は、志賀邸保存運動の最中、実に多くの人達が見て、その豪華本に感歎された」


とあります。この『暗夜行路』は余りにも多くの人々の手にとられ読まれたので、ズタズタになっていま、氏の手元にあるとのことです。直哉から贈られた一冊の『暗夜行路』が、つらかった保存運動中の心の拠り所となり、あるいは闘いへのエネルギーともなりました。ここにも、中村氏父子と直哉との深い縁を、私たちは感じ取ることができます。その他、直哉の確かな目をもって見事なスケッチに仕上がっているとして、氏が薦める作品には『池の縁』、『置土産』、『颱風』などがありますが、是非読み味わって欲しいと強調されました。

3) 高畑サロンについて
我孫子弁天山白樺サロン?
我孫子弁天山白樺サロン?
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当時志賀邸では直哉を慕って集まった多数の画家・文士達が、ここで芸術を語り、人生を論じ、やがて高畑サロンと呼ばれるようになりました。サロンに集まった人達には、武者小路実篤、網野菊、小林秀雄、滝井孝作、菅原明朗、尾崎一雄、足立源一郎、中村義夫、梅原龍三郎、九里四郎らがいます。

3.文化遺産を後世に伝えるということ

志賀直哉旧居を取り囲む高畑は、元々、社家春日を中心とした文化人が多く住むところでした。 神社制度の改革により全くのススキの原になっていたが、文化人の育つ芸術の町として、新しい高畑によみがえりました。このような風土を愛して訪れる人々のための高畑でありたいと、中村氏は心から願い、そうあるべく常に努力されています。

『奈良高畑の志賀直哉旧居−保存のための草の根運動−』
『奈良高畑の志賀直哉旧居−
保存のための草の根運動−』
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ところで、現在志賀直哉旧居では、邸の永久保存を理由に見学箇所が限られています。 中村氏達が運動当初開放を主張していた茶室、二階はおろか、食堂(ハッチのあるハイカラな食堂として見学者に非常に人気があった)、居間まで閉鎖されています。旧居のたたずまいは、そのまま志賀文学のたたずまいに通じています。氏はこう力説します。直哉自身が、本当に好きな場所は、書斎としても使用された二階であったはずであると。ここからは若草山が見え、奈良公園の木々も見えるのです。さらに、氏は次のように訴えます。作品中の作家の視線の行方を、共に見つめたり、居間でくつろぎ、サロンで談笑する直哉を直接想像することが、志賀文学のより深い鑑賞と理解、そして愛着へとつながるということを。このような場を読者に提供し活かすことこそが、文化遺産をただ過去のものとしないということ、「文化は、骨董品を蔵の中にしまい込むような方法では守れない」(注7)ということを。さらに「作家の旧居は、保存されること自体に意味があるのではなく、文学を愛する人々に開放されていることに意義がある」(同)ということを。

最後に志賀直哉の作品の一部を紹介し、まとめといたします。

此間奈良県の観光課で出してゐる雑誌に私は次のやうな事を書いた。「兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残ってゐる建築も美しい。そして二つが互に溶けあってゐる点は他に比を見ないと云って差支へない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠(ざんけつ)が美しいやうに美しい。」
実際、奈良には名画の残欠のやうな美しさがある。そして、名画の残欠には残欠としての取扱ひがあるやうに奈良に対しても此心使ひは是非必要だと私は考へる。無闇な修繕、或ひは加筆はつつしまねばならぬ。  『置土産』

《参考資料》
(注1)中村義夫画伯:中村一雄氏の父上 明治22年〜昭和32年 赤穂生まれ。
   東京美術学校卒 大正10年から15年までフランスへ留学 アマンジャンに師事。昭和3年奈良高畑大道町志賀直哉邸の西隣にある、足立源一郎邸を買う。高畑サロンの一人。


(注2)足立源一郎画伯:明治22年大阪に生まれる。京都美術工学学校、関西美術院等に学ぶ。大正8年から昭和2年まで奈良に住む。日本山岳画協会を創立、後年は山岳画家として活躍。高畑サロンの一人。


(注3)裏木戸のつきあい:「今日の君のところのめしは何」と、裏木戸から入って来られた志賀さん。中村家から志賀家に鯛を届けたりと両家は親密なつきあいがありました。昭和8年6月1日(木)直哉の日記に次の記述があります。
 隣りの中村より鯛の浜焼を貰ふ−中略−結構にて皆満足


(注4)志賀直哉が奈良市高畑に土地を求めたいきさつについて:『折柴随筆』奈良より 滝井孝作著 昭和10年9月 野田書房

(注5)豪華本『暗夜行路』:昭和18年11月、直哉六十歳の時出版された。題字は小林古径、梅原龍三郎らの絵を多く挿入。第二次世界大戦真最中に、豪華絢爛な装丁と挿絵人のメンバー。座右宝刊行会がいかにこの本に情熱を傾けたかが伺える。

(注6)『志賀直哉全集』岩波書店 2000年9月 第19巻155ページ1525

(注7)『奈良高畑の志賀直哉旧居−保存のための草の根運動−』保存運動は今後も続く 中村一雄著 昭和58年8月 渓声出版                                   

(平林清江)