165.「梅原龍三郎と白樺派」

第68回面白白樺倶楽部開催報告

講師 嶋田華子氏(東京大学先端科学技術研究センター協力研究員)
期日 2007年1月12日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

嶋田講師
嶋田講師
2007年の面白白樺倶楽部は、今回を含め過去68回の講演会の講師先生のうちで最もお若い年齢の嶋田華子先生をお迎えしました。梅原龍三郎と雑誌『白樺』の創刊メンバーの一人木下利玄2人共通の曾孫(ひまご)という環境にもめぐまれ、現在新進美術評論家として、NHKテレビなど多方面にて活躍され、おおいに将来が期待されております。今回は新年第一回ということもあり、終了後、講師を囲んでのビアパーテーも賑やかに開催されました。

今回の講演報告は大変ご多忙にもかかわらず嶋田講師にお引き受けいただき、まとめていただいたものです。

梅原龍三郎(1888-1986)は大正から昭和にかけて、二科会、春陽会、国画会等を舞台に活動した洋画家である。1944年(昭和19年)には帝室技芸員、東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授となり、後進の指導にあたるほか、1952年にはベネチア・ビエンナーレの国際審査員を務め、同年に文化勲章を受章するなど常に画壇をリードした。

今回は梅原の創作活動を、白樺の友と共に歩んだ足跡から検証したい。

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私は自分の作品に就て語ることを好まない。
作品が独り凡てを語るものでなければならない。
然し私の不幸は自分の作品が余りに雄弁でなさ過ぎる事である。
私の夢みる処は余りに多く、表現し得る処が余りに少しである。
そして表現のみが作品の価値を決定するものである事を知つて悲哀である。

私の大いなる幸福は、私の作品の上に私の夢みる処を見透して
私の夢と努力に同情ある多くの友を持つ事である。
私はしばしばほめられ過ぎて恥しく思ふ。
そしてそれ等の友情に酬いる為に倒るゝ迄努力して
後世其人達が不明でなかつた事を希ふのである。

梅原龍三郎『作家言』(昭和12年6月)
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資料を解説しながら
資料を解説しながら
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この梅原の残した言葉から、実に友に恵まれ、励まされて制作に励んでいたことが窺われる。

それではこの友、白樺の同人たちとの交友を以下の4つの視点からご紹介したい。

1,フランス留学時代の『白樺』寄稿
2, 白樺主催「梅原良三郎油繪展覧会」にて画壇デビュー
3,共通の趣味嗜好 
4,『白樺』同人の著作の装幀

 

1.フランス留学時代の『白樺』寄稿

梅原は1908年にパリに留学した際に、現地で知り合った有島生馬を通じて、1910年に創刊されたばかりの『白樺』に師ルノワールの近況報告、フランスの演劇事情や絵画について寄稿している。中でもルノワールの言葉として「君の友達から私の挿絵や記事のある白樺と云ふ雑誌とトレゼマブル(いたく愛すべき)な手紙を貰ふて実に幸福に思ふ 向うの番地が書いて無うて残念ながら御礼状の出し様がない故君から宜敷云うて置いて呉れ」という伝言は、白樺同人を喜ばせたことは想像に難くない。
また京都の幼年時代から演劇に強い関心を寄せていた梅原は、九里四郎と共に観劇した話なども『白樺』に掲載している。
梅原が師ルノワールや名優ムネ・シュリーとの交友について語ることは、同人ら同時代のフランスの芸術を身近に感じさせる一助になったのではないだろうか。

2.白樺主催「梅原良三郎油繪展覧会」にて画壇デビュー

5年のフランス留学を経て帰国した梅原は、ひと夏を生家のある京都で過ごした。秋に東京に転居し、10月には白樺社主催の「梅原良三郎油繪展覧会」を神田ヴィナス倶楽部で開催し、画壇デビューを果たした。以降、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦ら同人の中心メンバーと親しく交遊するようになる。また2度目の渡欧後、鎌倉の材木座に一時住まいを移した際には、当時鵠沼に住んでいた岸田劉生、鎌倉市大町に住んでいた木下利玄らと交友を深める。
白樺の理念に賛同した梅原は、のちに白樺美術館創設の為に手に入れたセザンヌの絵画1点とロダンの彫像3点を、同人を代表して武者小路・志賀・柳が大原美術館に寄託した際の調印式にも同席している。

3.共通の趣味嗜好

梅原の作品にはしばしば同人との交友がうかがわれることがある。

ローマにて
ローマにて
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例えば1914年作『椿』は、バーナード・リーチの砂糖壺に椿を生けて描いたものである。また『ひまわり』にみられる柳宗悦の土産の李朝の壺は、木下利玄も同型同柄の壺を所有していた。またこれらの好みは日本民藝館所蔵の柳の愛蔵品や、長与善郎の愛蔵品とも共通するものである。李朝の陶器にとどまらず、梅原は静物を描くために様々な花瓶を所有していたが、中でもマジョリカへの関心は中川一政のコレクションのきっかけにもなった。また梅原の万暦赤絵に対する好みは、志賀直哉の著作『万暦赤絵』には「ある時、私は梅原龍三郎の家で万暦の花瓶を見せられた。
萬暦赤絵表紙
萬暦赤絵表紙
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もちろん、本能寺所蔵の品とは比較にならなかったが、美しいものに思った。いくつにも破れたのを漆で修繕してある。柳宗悦の説では万暦と言えないこともないが、と疑問にしていたそうだ。梅原自身も感じが少し弱いことを認めていた。梅原はその花瓶でばらの美しい絵を作った。その絵は現在私の書斎にかけてある。」とあるように、志賀の関心のきっかけにもなった。

そして同人がこぞって集めた初期肉筆浮世絵や大津絵には、やはり梅原も関心を寄せていた。岸田劉生の著作『初期肉筆浮世絵』には梅原所蔵の作品が参考図版として収録されている。
この他、直接的な絵画のモチーフではないが、梅原といえば赤い色彩の作品が想起される。この赤のヒントになったポンペイの壁画は、梅原と志賀直哉の旧蔵品に共通している。

4.『白樺』同人の著作の装幀
梅原は里見クの『幸福人』など同人の著作の装幀も手掛けている。中でも志賀直哉の『枇杷の花』の中扉、『暗夜行路』の見返し、『素人玄人』の装画などをしており、志賀の作品との関わりは深い。志賀は「梅原の個展を巴里とニューヨークでやると面白いと思っている。 現代の日本で世界に紹介していいものをひとつ選べと云われれば私は【梅原の絵】と答える事に躊躇しない。私は今日まで、35年の永い間、梅原の仕事を見続けて来た。これからも永く見たいと思っている。」
(昭和21年)と激賞しており、梅原の作品を認めていた。

『素人玄人』座右宝刊行会1971挿画「犬」
『素人玄人』座右宝刊行会
1971挿画「犬」
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『暗夜行路』見返し
『暗夜行路』見返し
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紫禁城 1940 永青文庫
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また武者小路実篤も梅原に賛辞を贈っていたひとりである。以下に武者小路実篤の言葉を紹介する。

「梅原龍三郎と同時代に生きた事は僕の喜びの一つだ。お互いの性質、生活態度には実にちがう所が多いが、話せばわかる範囲には深いものがあり、胸のすく思いのする事がよくある。彼は仕事に熱心で忠実で勉強家だが、生れつき自分の世界を持っていて、自分の世界、趣味、生活も自己に忠実であり、他人には入りきれない世界に入って安住している。教わったものも多いが、生得のものはなお多い。(中略)彼は正直である。自分の世界に忠実であり、自分の仕事に全力を出し切っている。彼の画にはひとつの画に何年もかかっているものがあり、即興的にすぐ出来たものもある。彼の画は一目してわかる。彼の特色が思い切って出ているから。(中略)梅原龍三郎は一個の正直な画家である。愛すべき画を一生を通して本気にかいた一人の男である。尊敬すべき。」(昭和45年3月)

『無比』武者小路実篤書 1969
『無比』武者小路実篤書 1969
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自画像 梅原龍三郎1976 88歳
自画像 梅原龍三郎1976 88歳
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梅原と実篤の交友は実に長く60年余りに及ぶ。中でも実篤84歳の時に梅原に贈られた『無比』という言葉は、「自己の伸長」を掲げた白樺同人としても最高の賛辞だろう。誰の真似でもない、梅原が己の道を行く姿を認め励ますものである。また実篤は美術雑誌「真珠」に寄せた梅原に対する文章と梅原のフルカラーの別刷り図版を収録した『六人の現代画家』(昭和38年)を出版している。好悪のはっきりしている実篤であるが、梅原に対する評価は極めて高い。梅原は友情の証に実篤の著作『一人の男』(昭和46年刊)の特装版と並装版、『空海及びその他』の装幀や、実篤が編集した雑誌『星雲』の表紙も手掛けている。

懇親会にて 左より講師ご母堂(木下利玄孫)、嶋田講師
懇親会にて
左より講師ご母堂(木下利玄孫)、
嶋田講師
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以上のように白樺の同人は梅原を認め励まし、その創作活動を刺激する存在であった。

梅原の作品を前にした時、切磋琢磨しながら共に歩んだ白樺同人があって、その創作が実に豊かになったことがうかがわれるのである。

(嶋田華子)