171.「小林多喜二と伊藤整」

第72回面白白樺倶楽部開催報告

講師 曾根博義 氏 (日本大学文理学部教授)
期日 2007年5月11日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

曾根先生
曾根先生
古びて黄ばんだ紙、赤茶色に変色しているインク、書き記された文字の向こう側に、作家の様々な思い、体験、そしてその作家を生み、育んだ風土を想像してみることは、生原稿の展示を見る際の楽しみのひとつであるかもしれません。

文学館の常設展示資料のひとつに、志賀直哉から小林多喜二に宛てた書簡があります。
(参照 白樺便り第43号「2月20日を迎えて」

(1931年8月7日付け)小説家になることを目指して北海道小樽から上京してきた青年に対し、既にその世界で大家となっていた志賀が便せん5枚にもわたる懇切な手紙を書いていることに驚かされます。

東京に出てその志を果たすことを切望した多喜二の思いは、既に小樽在住時代にも、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)時代の恩師・大熊信行宛書簡に、就職の世話を依頼する言葉となって綴られています。(1927年2月6日付け・当館所蔵)

もう一人、北国の街小樽から文学への志を抱き東京を目指した青年に、伊藤整がいます。彼の自伝的小説「若い詩人の肖像」の中には、上記三人の名いずれもが登場し、特に小樽高商時代一学年上に在籍していた小林多喜二の姿は、静かな客観的描写をもって鮮やかに描き出されています。小林多喜二と伊藤整・・・文学的資質やその方向性は違っていましたが、二人が青春を小樽の街で過ごした体験は、文学作品となって結実し、現在も我々の想像を、かの北国の地へと誘います。

伊藤整の研究者として知られる日本大学教授・曾根博義先生は、その研究過程において小林多喜二の最初期の小説を発見されました。以下は、その発見に至る過程と、その小説のモチーフとなった事件における多喜二と伊藤整との不思議な接点について、先生がご講演くださった内容の一部を要約したものです。

新発見の小説は、「老いた体操教師」と題する短編です。昭和女子大図書館に収蔵されている文芸雑誌『小説倶楽部』(大正10年10月号)に掲載されていました。当時多喜二や伊藤整に限らず、文学を志す青年達は、東京で出版される雑誌に投稿しては、自らの書く力を試し、鍛えるということをしていました。従って、大正から昭和にかけての文芸雑誌を丹念に調べていくことは、作家研究にあたっては必須のことです。

発見したときは、たいへん驚きました。多喜二ほどの作家の作品で、まだ未発見のものがあったのか、という思いでした。では、この『小説倶楽部』という雑誌は、一体どういった性格の雑誌だったのでしょうか。それを調べるために、当時の新聞を調べてみました。するとやはり雑誌が発刊されるに際し、東京の読売新聞、また北海道の小樽新聞にも出版予告の広告が掲載されていました。そこからうかがえること、それは前身だった大衆的講談雑誌が、他誌との差異化を図るため、文学的な色づけをし、投稿欄を設け、大々的に広告をうったということです。

『小説倶楽部』の投稿欄に多喜二は何度か投稿をしましたが、掲載になったり、不掲載になったりしています。そして「老いた体操教師」は、大正10年10月号に掲載されました。

その書き出しには、「この高台から見える町はぢーつとおびえてゐるやうに少しも活気がなかった」という冬の小樽の描写があります。それは伊藤整の「若い詩人の肖像」冒頭にも出てくる高台から街を見下ろす景色、小樽商業、小樽高商に通った者たちにとっておなじみの景色です。

小説の内容は、主人公のT先生が、新しい校長着任に伴って、生徒に対する態度を一変させたことから、生徒による排斥運動に遭い、学校を追われていくまでを描いたものです。この小説は、小樽商業で実際にあった、保守的校長に対する排斥運動にヒントを得て書かれたもののようです。この事件についても、当時の小樽新聞の記事をさかのぼることによって、調べていくことができます。そして、この運動の指導的立場にあったのが、伊藤整の友人鈴木信で、彼の名は「若い詩人の肖像」の中にも実名で登場します。鈴木信は、後に左翼の闘士となり、野坂参三のもとで活躍しました。伊藤整の中では、多喜二と鈴木信のイメージが重なることもあったかもしれません。

しかし多喜二はこの事件を小説にするにあたっては、T先生に対する同情的立場から書いています。当時17歳の若者にすぎなかった多喜二が、老いたT先生の立場や心中を思いやって、テクニックは稚拙であっても、多喜二らしい視点のある小説に仕上げています。すなわち常に弱者に対する温かな同情的まなざしが、そこに感じられるのです。

多喜二と伊藤整は、小樽の街がその最も発展した時期、繁栄した時期に生みだされた文学者です。当時小樽は人口15万、現在も同じくらいであることを考えると、当時の小樽の繁栄ぶりがわかります。小樽が最も活気づいて、次々と港ができ、運河ができたころ、そこには大勢の労働者が働いていました。資本主義社会が地方都市をこれほど活気付け、人々が潤ったり苦労したりする、それを目にしていた多喜二の中に小説の題材が生まれていったであろうことは、想像に難くありません。多喜二は、マルクス主義を知る前から、本来他人の不幸に同情せずにいられない優しさを持った青年でした。それに加えて、こうした小樽の街の発展や変貌が、彼をプロレタリア作家へと導いていったものと思われます。

一方伊藤整は、徹底して自分の内面、そして自分を取り巻く郷里北海道の自然や異性に関心を注ぎます。それらについての詩を書きため、作品集として自費出版したのが、「雪明りの路」という詩集でした。小説家としての小林多喜二の眼が小樽という街の発展とそこで働く人々に向かったのに対して、詩人伊藤整の眼は街でなく周辺の村の自然に注がれ、そこに自分の感覚と感情の揺らめきを読みとっていたのです。

しかし伊藤整の一家が、なぜ小樽に住むようになったのかを考えると、これも当時の北海道の繁栄、発展に着目しなければなりません。彼の父親は、もともと広島県出身の下級軍人で、のちに小学校の教員や村の収入役になりましたが、当時ニシン漁で活気のあった北海道に職を求め、松前、余市を経て、忍路郡塩谷村に移り住むことになったのです。その意味では、彼の文学もまた、歴史の大きな流れの中で語られねばならないでしょう。

後年、伊藤整自身が「小林多喜二と私」(講談社版『日本現代文学全集70中野重治・小林多喜二集』月報35・昭和38年8月)の中で次のように書いています。

会場風景スナップ
会場風景スナップ
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「私と彼との間には深い交際はなかったが、今の文壇人では、私が最も早くから多喜二を見識っている人間であろうと思う。典型的なプロレタリア作家、革命運動家として彼を見れば、私は無縁な人間である。しかし、二人の文学少年が、北海道の小樽の高等商業学校という、文学には何の縁もない学校で同じ時期に学び、前後して卒業して、のち文士になった、という単純なところから考えれば、私と小林多喜二とは、一組の人間のようなところがある。」

曾根先生を囲んでのお茶会
曾根先生を囲んでのお茶会
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曾根先生のお話から、また、伊藤整の文章から、小樽という街の歴史、その街並み、自然、風土が、二人の若者を文学に向かわせ、それぞれの資質を育んだことが想像できます。文学への思い、東京への思い、彼らの青春を形作った街を、訪ねてみたくなりました。

(西村さち子)