174.志賀直哉の衣食住

第73回面白白樺倶楽部開催報告

講師 大河内 昭爾氏 (武蔵野大学名誉教授)
期日 2007年6月8日(金)18時30分より
場所 当館コミュニティールーム

大河内先生
大河内先生

白樺文学館の人気販売図書の一つ、志賀直哉の「随筆 衣食住」の編者大河内昭爾先生を、念願かない本日お招きすることができました。先生は元武蔵野女子大学学長で現武蔵野大学名誉教授、日本文藝家協会理事として多方面にご活躍中です。著書に「現代の抒情」「味覚の文学散歩」「文壇人国記―明治大正昭和(東日本)」「粗食派の饗宴」「アンチ・グルメ読本」「食のすすめ」「食の文学館―味覚風物誌」「追悼 丹羽文雄」など多数あり、文藝評論家・軽妙洒脱なエッセイストとしられています。

本日は志賀直哉の「衣食住」と題しまして、人間志賀直哉の日常生活のエピソードと小説家としての比較対照・志賀文学の小説作法など、貴重なお話をご披露していただきました。講演の要旨を報告いたします。

味噌入りカレー

十数年前手賀沼が汚染日本一と有名であった頃から、我孫子には白樺派の文人を訪ねて数回来ています。当時と比較して手賀沼も最近はずいぶんきれいになり、しかも白樺カレーができたそうで、バーナード・リーチの発案で味噌入りカレーとのこと、美味しいに違いない。もう一度白樺派のカレーを食べに来たいと思います。(先生は食文化の研究者・数々の味覚に関する著書あり)昔からライスカレーは蕎麦屋のカレーが一番美味しい。それは、鰹節に醤油を使っているからで、日本人の口にあう。フランス料理店のカレーライスは甘ったるく、私には口に合わない。

最近の文学

「だった」「である」「た」で苦労する
「だった」「である」「た」で苦労する
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志賀直哉の場合小説か随筆かの区分は難しいことであるが、私の若い頃、短編は原稿用紙二十枚から三十枚で書き上げるのが課題でしたが、最近の風潮は百枚とかニ百枚になり、短編を書ける作家はいないように思われる。文学界に「文学とは文章だ」と書いたら、早速に「文学はテーマとおもう」「文学は社会性だ」と反論がありました。それは当然の事ですが、やはり文章が大切だと思う。文章の土台がしっかりしていれば、その上の構造物の柱や壁や屋根もしっかりした建物になる。その点、志賀直哉の文章は土台がしっかりしゆるぎがない。

井伏鱒二さんが「だった」とか「である」とかの語尾にこだわりはじめて神経症的になった時、知り合いの編集者に志賀さんの原稿を見せて貰ったところ、志賀さんも「だった」か「だ」、あるいは「である」と、語尾をしきりといじくっているのがわかって、その夜安心して眠れたという話を思い出す。志賀さんの文体の堅固さはいろいろな作家に影響した。当時の作家は書いては消して、書いては消して、気づかって書いたものである。丹羽文雄も「エデンの海」の作家若杉慧も志賀さんの作品を原稿用紙に書き写して勉強したという。

丹羽文雄との暗夜行路文学論

私は丹羽文雄の『親鸞』『蓮如』を近代文学で研究していることから、丹羽さんと何度か講演旅行していますが、山口県下関の宿で、食卓にうどの漬ものが出て、私は『暗夜行路』の舞台になった伯耆大山の話をした。旅を重ねる長編なのに食べ物の事が出てこない。伯耆大山の蓮浄院の場面だけに食べ物に関する話題が出てくる。粗食覚悟の主人公にも予期できないほど米の質が極端に悪く、滞在が長引くにつれ減食する結果、からだが弱ってくる。しかし「寺の上さん(原文のまま)のつくる山独活の奈良漬だけがうまかった」としるしている。独活の漬けものを口にして、それで自然に『暗夜行路』の話しになった。『暗夜行路』は一貫して主人公時任謙作の視点からのみ描かれているが、この伯耆大山のところは、妻の直子の視点で長編が結ばれていることを何気なく口にすると、丹羽さんはびっくりしたような眼をして「そうだったかね」「帰ったら読み直してみよう」と口にされた。まるで文学青年同士の話題のおもむきだった。当時文壇の大御所であり、日本文藝協会の会長だった丹羽文雄を、かくもいきいきと語らせる志賀直哉の存在というものに、私はあらためて大きく感じた。また丹羽さんの文学に関しての純粋さに感動した。

志賀直哉の周辺

京都・奈良にかけて直哉の周辺には、滝井孝作・尾崎一雄・網野菊・小林秀雄など彼を慕う多くの人々が訪れたり、その近くに住んだりした。志賀さんを敬愛した作家の古木鉄太郎は、一人息子を直輔と名づけているが、その古木直輔が私と国文科の同級で、父ゆずりの尊敬のあげく卒業論文まで志賀直哉だった。彼を通じても志賀伝説はかっこうの話題だった。古木家に遊びに行って、直接古木さんから志賀さんの印象をうかがったこともある。「改造」記者時代の古木鉄太郎は、改造社を退社した瀧井孝作にかわって、我孫子へ『暗夜行路』の原稿をとりにいったいきさつを「我孫子に行って志賀さんに会った日は、自然と気持が柔らぎ、何か心の澄んだ、ひきしまるやうな感じを覚えながら帰って来るのが常だった。そして帰りはたいがい夕方か、さもなければ夜になるのだが、その帰りの空いた汽車の中で、誰よりも最初に『暗夜行路』の原稿を読むのがまた楽しみだった。」とかきとめている。

人間志賀直哉のエピソード

脱いだ足袋は・・・
脱いだ足袋は・・・
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生前の志賀さんを私が見たのは、ただの一度しかない。渋谷道玄坂のフルーツ「西村」の地下レストランでのことであった。友人と二人で食事をしていると、志賀夫妻がいきなり隣のテーブルにむかいあって席につかれた。私は志賀直哉だとわかるとひどく緊張して、夫妻の様子をうかがったものだ。ところが志賀さんは自分だけさっさと食事をすませると席を立って、カウンターからこちらをふりかえって康子、康子と大きい声で夫人を呼び、夫人はあわてて後を追った。この振る舞いに、友人はしばらく腹を立てていたのをおぼえている。

この話を文藝春秋で話したら、「志賀さんはいつもそうです」とのこと。編集長が熱海の離れにご一緒したとき、ポンポンと手をたたき、奥さんを呼び、「何か御用ですか」と奥さんがたずねたら、部屋のにじり口にあった「新聞を取ってくれ」といった話を聞いた。現代から見ればワンマン亭主に思われますが、昭和30年執筆の「夫婦」に「康子さんが脱いだ足袋を丸めて、私の背後に廻わると、黙って、私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。」様子が書かれていて、亭主関白だけではない夫婦の微妙なありようがのぞかれ興味深い。

心の漢方薬

教え子との再会なども
教え子との再会なども
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私は「心の漢方薬」というタイトルを与えられて、短い文章をある雑誌に連載することになった時、その中核になるものとして反射的に頭に浮かんだのは、ほかならぬ芥川の志賀への傾倒のことだった。それをわたしは主題にひきつけて次のようにまとめた。志賀直哉の長編『暗夜行路』は大正10年1月から書きはじめて、昭和12年4月に完結した。前後17年の歳月を費やしている。文庫本二冊分全部で五百頁余の作品とはいえ、執筆期間の長さという点で一般の作品では考えられないことである。友人の武者小路実篤が『暗夜行路』を中絶したままの志賀に、あとどの位で終わりになるのだと聞くと、「あと五六十枚」という答えだった。その折かたわらにいた若い人が『暗夜行路』の中絶を残念がったところ、志賀はその方にむき直って、「君にそんなことを言う資格はない」ときっぱり言って相手をおどろかせたという。武者小路は何十年も前の話だからことばは少しちがっているかもしれないが、そのやりとりはしっかり覚えていると、後年(1965年)「志賀直哉のこと」という文章に書いている。

志賀の小説作法は、物語のために話を都合よく作るのではなくて、自分の心に納得のいくかたちで話を運ぼうとする。もちろんよみもの作者でなく、文学作者は大なり小なりそのへんの機微は同様であろうが、志賀はその点潔癖すぎるほど潔癖だった。それ故、「文学の神様」といわれたり、戦前には現代文学の最高峰のようにみなされたのである。志賀はケガをした犬が、傷を舌でなめながら、時間のかけて治すように、こころの傷をなめながら、自然に治るのを待っているように小説を書いた。つまり精神と肉体の調和をはかるために時間をかけて小説を書いているのである。精神にうけた傷を肉体にうけた傷と同様に扱おうとする。

こころを大切にした時代には、志賀文学が尊重され、こころがおろそかに扱われる現代に、志賀文学がかえりみられることが少なくなったのは当然かもしれない。

志賀直哉の文章は「活字が立っている」とまでいわれた。それほど無駄が無く緊張したリズムがあって、長い間名文の見本のように思われたが、彼の精神と肉体の敏感なかかわり方と、その調和への強い意志が、おのずからことばの彫りを深くし文章をひきしめているからであった。生理的なリズムがそのまま文体になった。好悪の感情が善悪の判断になるという倫理的なけっぺきさが、文章の簡潔さになった。自殺した芥川龍之介が、晩年、志賀文学への強いあこがれを表明しているのは故なしとしない。自然人志賀直哉は「心の漢方薬」の調合を見事に会得している。

(矢野正男)

参考文献  
随筆 衣食住 志賀直哉 三月書房
志賀直哉全集 第四巻 暗夜行路 岩波書店
志賀直哉全集 月報2 補巻1 志賀直哉の存在 岩波書店
楽しいわが家 第42巻第3号 全国信用金庫協会