177.「祖父、河井寛次郎のこと」

第74回面白白樺倶楽部開催報告

講師

鷺 珠江 氏 (河井寛次郎記念館学芸員)

期日

2007年7月13日(金)18時30分より

場所

当館コミュニティールーム

河井寛次郎 自宅庭にて

河井寛次郎 自宅庭にて
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当白樺文学館に河井寛次郎の「おどろいて居る自分におどろいて居る自分」の掛け軸が展示されています。この言葉について、筑紫哲也氏は、(『河井寛次郎の宇宙』河井寛次郎記念館編)の中で「僕にとっての永遠のヒーロー」と題して次のように述べています。

「平易でありながら深味を湛えた箴言のようなことばの中に、どうしてこの人物が秀れた作品を次々と生み出すことができたかの秘密をうかがうことができる。そして、それはこの人と作品の説明にとどまらず、『此世』に生きる人たちに何かを投げかけてもいる。」

今回は河井寛次郎のお孫様であり、現在「河井寛次郎記念館」の学芸員をされている鷺珠江さんに講演をお願いしました。

寛次郎記念館中庭での鷺珠江さん

寛次郎記念館中庭での鷺珠江さん
当館所蔵・展示中の掛け軸

当館所蔵・展示中の掛け軸
          

 

志賀直哉・柳宗悦の思い出

昭和15年早春、旅の途中で河井邸を訪れた志賀(「早春の旅」)を寛次郎の一人娘、須也子さん(鷺珠江さんのご母堂)が出迎えた。「『ちびた下駄』に『継ぎのあたったコート』を召した志賀さんだったが、玄関に脱いでおかれたその下駄にはノーブルな風格が感じられ、コートからは神々しささえ漂っていた」とご母堂は述懐されていたとのこと。

爆笑の会場

爆笑の会場
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東京のある料亭に『民藝』の錚々たるメンバーが一堂に会した時のこと、まだ幼かった鷺さんも同席した。
「柳先生が、卓上にある『鶏の丸焼きのしっぽに付いた白い紙のキャップ』を各テーブルから集めてきて、私の指に一本一本はめてくださいました」
古武士然とした志賀と茶目っ気旺盛な柳が眼前にいるようで、とても面白く拝聴できました。

【河井寛次郎年譜(一部)】(「河井寛次郎の宇宙」より抜粋)

1890(明治23) 島根県安来町に大工棟梁の次男に生まれる
1906(明治39) 叔父、足立健三郎の影響で陶工を志す
1910(明治43)
(20歳)
東京高等工業学校(現東工大)窯業科推薦入学。3年後に、浜田庄司が入学
1911(明治44) バーナード・リーチの新作展を見て感銘を受ける。後日、リーチの上野の居宅を訪問
1914(大正3)
(24歳)
卒業後、京都市立陶磁器試験場技手となり、各種釉薬の研究。後に、浜田庄司が入所
1920(大正9)
(30歳)
京都市東山区の清水六兵衞の窯を譲り受け「鐘溪窯」と命名。工房と住居を構える。
12月、三上やす(つねと改名)と結婚
1921(大正10)
(31歳)
「第一回創作陶磁展観」を東京・大阪の高島屋で開催、好評を博す。高島屋宣伝部長、川勝堅一を知り、生涯の親交を結ぶ。以後、作品の定期的な発表は高島屋で行う。
1923(大正12) 「第三回創作陶磁展観」開催。この頃から名声の高まりに反し、自らの作陶に疑問をいだく。
1924(大正13) 浜田を通して柳宗悦を知る。長女、須也子誕生  (鷺さんのご母堂)。
1925(大正14) 作風の意識的転換。技巧が著しく簡素となり、雑器が際立った。『民藝』という言葉をつくる。
1926(大正15) 「日本民藝美術館設立趣意書」を作成。(柳・浜田と)
1931(昭和6) 柳、浜田、富本らと同人雑誌「工藝」を発刊
1934(昭和9) 『日本民藝協会』設立。リーチを鐘溪窯に迎え、と共に制作する。
1936(大正11) 東京駒場に「日本民藝館」が開館。
1936(昭和12)
(47歳)
パリ万博で「鉄辰砂草花図壺」がグランプリを受賞。室戸台風で痛んだ旧居を解体し、自らの設計で実兄、善左衛門を棟梁とする郷里の大工一行の手により家を新築。
1939(昭和14) 『月刊民藝』発刊 
1941(昭和16) 「竹材生活具展覧会」を開催。
1946(昭和21)
(56歳)
長女須夜子結婚。棟方志功が鐘溪窯を讃える版画「鐘溪頌版画棚」を制作。
1947(昭和22) 工業製品の美を提唱。寛次郎詞、棟方志功版画で『火の願ひ』を刊行。
1950(昭和25) 
(60歳)
木彫に取り組む。以後10年余で約100種制作。
1955(昭和30) この頃、真鍮キセルをデザイン
1957(昭和32) ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展で「白地草花絵篇壷」グランプリを受賞。
1961(昭和36) 5月3日 柳宗悦死去。
1966(昭和41) 11月18日 永眠(76歳)

 

陶工の道へ

中学時代は文武両道に秀で、また模範生として周囲の期待を大きく担い、末は博士か大臣かとも嘱望されていた。叔父で、医師である足立健三郎は寛次郎を医者に、と思っていた。ある日、彼を手術に立ち会わせたところ、気分を悪くしてしまった。それではと美術方面を薦めた。安来町は松平不昧公のお膝元、窯場も近くにあり、陶工になるべき環境は整っていたようだ。寛次郎16歳のことである。

 

川勝堅一との交流

ミラノ受賞作品

ミラノ受賞作品
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1921年の「第一回創作陶磁展観」以来、生涯の親交を結ぶことになる高島屋宣伝部長、川勝堅一(通称カワカツさん)は、高島屋展覧会での作品の価格付けをし、また売れ残った作品をポケットマネーで買ってくれた。河井も窯があがるとまずカワカツさんに好きな物を持って帰らせたりした。カワカツさんは河井の作品を初期のものから晩年のものまで所蔵していたもののうちから425点が、現在京都国立近代美術館に「川勝コレクション」として納められている。出色はカワカツさんが河井に内緒で昭和12年のパリ万博と昭和32年のミラノ・トリエンナーレ国際工芸展に出品し、いずれもグランプリを受賞したことだ。世間の名声を嫌った河井の当時の受賞インタビューでの困惑顔が愉快である。 

 

寛次郎の足跡

寛次郎の陶芸家としての仕事は三期に分かれるといってよい。

初期は「中国古陶磁」を範とした時期。「鐘溪窯」に一家を構えて数年は、華麗で繊細で、これまでに習得した持てる限りの技術を完璧な状態で作品に込めていった。陶芸家として自立した時から早くも名声を得ている。

中期は「用の美」を追究した時期。大正末期からは、世間の名声とはうらはらに自己の作陶に疑問が生じ、自分流のスタイルを模索(意識的転換)。それは、小さな自分の名前がちやほやされる間はまだ本当の仕事ではない。名もない職人の手仕事からなる無名陶こそ素晴らしい。「有名は無名に勝てない」ということの発見につながった。英国のスリップ・ウエアや李朝の雑器と出会い、作陶も技巧が著しく簡素となり、雑器が際立った。時を同じくして柳宗悦を知り、民衆の手による工芸品を民衆的工芸として『民藝』という言葉をつくる。この時代、多くの人と物に出会っている。

「美術とは、土地・風土に根ざしたものの中にこそ健全な美が宿る。暮らしの中に取り組み美しい生活ができる」ともいっている。

後期は「造形」への飽くなき探求の時期。戦後から晩年にかけての特徴は、何ものにもとらわれない自由で生命力あふれる作風になっていくことである。『民藝』の精神(用の美)は内部に残しながら、生み出されるものは、「使う使えない」の枠を飛び越えたものになる。素材を土から木や金属に変えて、多くの木彫りや真鍮の煙管などを残すことになる。肉体の老いを凌駕する精神と作品はどんどんエネルギッシュな生命力にあふれていった。陶工寛次郎はもはや、木彫家、建築家、デザイナーであり、文筆家、詩人でもあったのだ。木彫はおよそ100点ほど制作しており、そのほとんどは現在も寛次郎記念館にあり、来館者の目を楽しませてくれている。また、竹家具のデザインにも熱中し、高島屋で展覧会を開催している。

戦時中は空襲による防災のため、窯に火を入れることができなかった。作陶が中断された河井は、かえって創作意欲が凝縮し、「書くこと」で自らの表現活動を行うことになる。この時期、京都近郊の村々を歩き回って『部落の総体』という文章を物している。「人々は始め自分達の好き勝手を持ってここに這入って来たのに相違ない。そして殖えるにしてもそんなにして殖えたに相違なく、その自分勝手な振舞の組合せが現在のこの村の姿なのに相違ない。その好きずっぽうの綜合がどうしてこんなになったのか、自分はこの驚くべき設計者の顔に当面せざるを得ない。しかし村の人達は村の美について勿論気付いている訳ではない。それどころか、何処の村でも大抵の場合、そういう事には無関心である。」

戦後、『火の願ひ』と題して、その頃に書き貯められた詞句を棟方志功版画によって作り、また陶土に自らが文字を彫った『いのちの窓』も制作している。陶芸作品としては、陶板という形をとることで、そこに自らの詞句や四文字の造語(四字熟語)をちりばめている。

 

詩人寛次郎(河井の言葉)

「鳥が選んだ枝 枝が待っていた鳥」「暮らしが仕事 仕事が暮らし」
「機械は存在しない 機械は新しい肉体」「美不美不二」「此世このまま大調和」
「父母天地」「泥身火魂」「井蛙知天」「献空青煙」「喜者皆美」「心刀彫身」
「手霊足魂」「手念足願」「手考足思」「手驚足喜」    

これらの詞句は、やさしい言葉を使いながら寛次郎の精神世界を端的に表している。寛次郎の精神世界における一大転機は(意識的転換)は、大正から昭和へと時代が移ろうとする時期であった。それは「有名と無名」あるいは「美と不美」といった『二つの世界』の認識であった。やがてそれは二つの世界の合一、すなわち「此世このまま大調和」の精神につながっていくのである。このころ、作品の発表を一時中断したが、再開された作品からは『銘』が消えていた。それは全作品の7,8割に及ぶ。従って銘があれば大正期の作品だとわかるのである。

 

祖母、つね

「祖父の仕事は偉大であるけれど、一番の幸福は妻『つね』を得たことだと思う」と鷺さんはおっしゃっている。過去に30回近い縁談があった寛次郎が、初めての見合いのつねを一目で気に入った。お嬢さんで生粋の京女のつねが、やがては食客が数多く集まる「千客万来の家」「飲み食いの家」の大黒柱としてしっかりと裏方を支え、「バラバラが最後は大団円」になる河井家を作り上げていったのである。まさに「此世このまま大調和」ではないか。

 

河井寛次郎記念館

表札棟方志功書

表札棟方志功書
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清水焼宗家5代目清水六兵衞から譲り受けた登り窯「鐘溪窯」は共同窯(寄合窯ともいう)で、広さに応じて数人が金を出し合って共同使用していた。分業制になっており、「かまたきさん」(窯たき専門)、「かまつきさん」(窯の修復)、「がらきちさん」(かたづけ専門)、「おとこしさん」(薪割りや雑事)等に分かれていた。素焼き窯は寛次郎のデザインで造られたものである。工房が土間ではなく板の間にあるのも独自の考案である。
庭に大きな丸石がある。郷里安来の人々が新築祝いに石灯籠を、と言ったところ丸石が欲しいと言われたそうな。寛次郎は庭の丸石をあちこちに移動させて楽しんでいたようだ。

住居は、その全てが寛次郎のデザインによるもの。そこはまさに『寛次郎ワールド』である。先ず、入り口に掲げられた棟方志功の書による大きな表札(黒田辰秋制作)が、存在感のある家の顔になっている。中にはいると、中央に位置するのは吹き抜けと滑車、囲炉裏、臼で出来たキャスター付きの椅子、柱に掛かった大きな振り子時計(柳宗悦からのプレゼント)、二階に上がる箱階段(浜田庄司からのプレゼント)、各部屋にさりげなく置かれた霊的というか、土俗的というか、どことなくユーモラスでもある木彫像(ジブリの世界に通じていませんか?)。それらを取り込んだ古民家独特の暗い飴色の色調が、来館する人々の心の奥底の原初の部分にヒットする。

鷺さんのお話によれば1973年の一般公開以来、来館者0の日は無く、特筆すべきは阪神・淡路大震災の翌日にも3人が来館したこと(震災当日は月曜日で休館日だった)。訪れる人たちの思いを備え付けのノートから拾ってみると、「自分の大切な場所」として「仕事の疲れを癒しに」あるいは「日本を離れる前に訪れた」という人が多いようだ。また、リピーターたちは「見えないもの、形になっていないものの部分に惹かれている」ようだ。単なる美術鑑賞にとどまらない、もっと深い精神性を求めてこの空間にしばし漂うのであろう。『何といふ今だ 今こそ永遠』

 

終わりに

講師と石井頼子さん

講師と石井頼子さん

今回のご講演にあたって、鷺さんは、な、何と!! あの棟方志功のお孫さんである石井頼子さんとご一緒して来館されたのです。寛次郎のエッセイ集『火の誓い』(講談社文芸文庫)の中の「棟方志功君とその仕事」でわかるように二人は固い信頼の絆で結ばれ、互いの人柄や作品を愛し、励まし合いながら共に創作に勤しんできました。その二人のお孫さんに同時にお会いできたのはまるで奇跡としか言いようがないほどの喜びでした。渡辺副館長の紹介の時の、会場の驚きと歓喜のどよめきは今も耳に残っています。
なお石井頼子さんには10月12日開催の第77回面白白樺倶楽部にて講演予定です。また会場にてお会いできますことを楽しみにしております。

文章作成につきましては、
「河井寛次郎の世界」(河井寛次郎記念館編、講談社発行)
「火の誓い」(河井寛次郎著、講談社文芸文庫発行)
を参照させていただきました。ありがとうございました。

竹下賢治