178.「バーナード・リーチの生涯と芸術」

第四回企画展記念講演会

第70回面白白樺倶楽部開催報告

講師

鈴木 禎宏氏 (お茶の水女子大学准教授)

期日

2007年3月24日(土)13時30分より

場所

JR我孫子駅南口けやきプラザふれあいホール

白樺文学館第4回企画展記念講演会は、ちばデスティネーションキャンペーン「房総発見伝」に協賛して開催されました。本文挿入予定の画像の著作権確認のため数ヶ月遅れのホームページ掲載となりましたことをお詫び申し上げます。
講演に先立ち共同主催者として当館、佐野力館長代理渡辺貞夫副館長と我孫子市、星野順一郎市長よりご挨拶をいただきました。

佐野館長代理渡辺副館長
佐野館長代理渡辺副館長
星野我孫子市長
星野我孫子市長
          

講師:鈴木禎宏 准教授
講師:鈴木禎宏 准教授

引き続き講演に移り、講師として千葉県生れで新進のリーチ研究者として注目の鈴木禎宏氏(お茶の水女子大学准教授)に、「バーナード・リーチの生涯と芸術」というタイトルでお話をいただきました。

講師のご著書は、第28回2006年度(芸術・文学部門)サントリー学芸賞及び第27回ジャポニズム学会賞を受賞されました。この度は、ご著書と同じタイトルでお話をいただきました。式場隆三郎以来、70年ぶりのリーチに関する著書です。ご講演は、「バーナード・リーチについて」、「リーチの思想の展開」、「リーチの活動」、「リーチの作品」、「まとめ」の5つにわけてわかりやすくお話いただきました。

 

はじめに
バーナード・リーチ(Bernard Leach, 1887-1979)について

バーナード・リーチは20世紀のイギリスを代表する陶芸家である。もともとは版画家であったが、大正時代の日本に滞在したことがきっかけで、陶芸家となった。イギリス帰国後も日本との接触は絶やさず、特に雑誌『白樺』同人との交友は生涯にわたり続いた。また、柳宗悦が創始した民芸運動にも参加した。
この発表では、リーチの生涯と思想を紹介し、彼と我孫子の関わりを振り返る。

 

1 リーチの思想の展開:1920年まで

(1) 出発点:中世主義medievalism
リーチは1887年、香港に生まれた。父は法律の専門家だった。母が生後すぐに亡くなったため、当時日本に住んでいた母方の祖父母にひきとられ、3歳まで京都や彦根で過ごした。これが第1回目の来日となり、以後亡くなるまで十数回、来日した。

セント・ルーク教会・右鈴木講師撮影
セント・ルーク教会・右鈴木講師撮影
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10歳ではじめて母国イギリスの土を踏み、6年間の寄宿舎生活を送る。その後、美術学校に進み、1908年には「ゴシックの精神・セント・ルーク教会」をエッチングで制作する。セント・ルーク教会は、19世紀初頭に建てられた、ゴシック・リバイバル様式の教会である。

この作品に見られるように、リーチは、「中世」というものに憧れをもち、それを基準に同時代の物事を考えるようになった。このような思想のことを、「中世主義」と呼ぶ。アーツ・アンド・クラフト運動も中世主義の現れの一つであり、リーチもその延長上にいると言えるが、ただしリーチに特徴的なのは、「中世への関心」が「日本への関心」につながっている点である。当時の進化論的な世界観の中で、彼は日本をヨーロッパの中世に相当する場所で、しかも中世的な生活と芸術が息づく場所として考えた。

(2) 「東と西の結婚the Marriage of East and West」
ロンドン美術学校でたまたま高村光太郎と知り合ったリーチは、高村の手助けを得て、1909年に私費で日本渡航を果たす。そして、東京美術学校の出身者や、学習院出身の『白樺』 の同人達と交友をもつようになった。こうした交友を活かして、1911年には陶芸を学ぶようになった。

来日したリーチが実際に見たのは、中世的な世界というよりは、日露戦争を経て重化学工業が発展させていく日本の姿であった。こうした、近代化の進行と共に生じる日本の文化的混乱を目にしたとき、リーチは「東と西」、「男と女」というような、対となる言葉で整理し、考えていこうとした。このような考え方は二元論と呼ばれるが、こうした二元論的発想がリーチの特徴である。1910年代の日本でリーチは、「東と西の結婚」(Marriage of East and West)という、独特の世界観を形成した。

(3)「対抗産業革命 counter-Industrial Revolution」
1916年(大正5年)、当時北京にいたリーチを日本に呼び戻したのが、柳宗悦であった。柳は我孫子の自宅の庭を、リーチの窯のために提供した。当時の我孫子には柳の他に、武者小路実篤、志賀直哉がいた。こうして、リーチは陶芸家としての本格的に研鑽を積む一方、雑誌『白樺』の同人たちと交友を深め、武者小路と志賀の著作の装丁や『白樺』『白樺の森』『白樺の林』など装丁を手がけている。

1919年5月、我孫子のリーチの窯が火事をおこし、リーチは、資料を失ってしまう。失意のリーチを助けたのが、画家の黒田清輝だった。我孫子の後、リーチは麻布の黒田邸で制作するようになった。
『白樺』派との交友及び我孫子での作陶活動により、リーチは陶芸を通じて生活と芸術を考え、さらに「東と西」の文化のあり方を考えるという、その後の活動のあり方を固めた。

 

2 リーチの活動:1920年以降

1920年以降のリーチの活動は、3期に分けられる。

第1期:1920年から1937年:バーナード・リーチと「スタジオ」
リーチ製陶所の現況 鈴木講師撮影
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1920年6月、リーチは濱田庄司を伴い、イギリスに帰国した。そして、コーンウォール州セント・アイヴスにて、製陶所を設立した。ここを拠点として、リーチは東アジアの陶磁器を範とする作品制作を行う一方で、イングランド在来の陶芸技法の研究にも打ち込んだ。

リーチ製陶所は当初、4人ではじめられた。その性格を一言で言えば、リーチという芸術家を中心とする、「スタジオ」的なところであった。

U期:1937年から1955年まで
左 リーチ長男デビッド
左 リーチ長男デビッド
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この時期のリーチ・ポタリーは、リーチの長男のデイヴィッドDavidが中心となって維持された。 デイヴィッドは1937年、薪だけでなく、安価な重油を併用できるように窯を改造することに成功する。また粘土を変更したり、釉薬に工夫をこらしたりした。

この時期のバーナードは、セント・アイヴスの他に、デボン州ダーティントンでも活動した。A Potter’s Book(陶工の本)を著し、バハイ教に入信したのは、ダーティントンにおいてである。また、1952年のダーディントン国際工芸家会議は、リーチが主催した。この機会に柳宗悦が英語で講演を、濱田庄司が実演を行い、参加者たちに感銘を与えた。柳、浜田の二人を招いたリーチの功績は大きかった。

V期 1956年から1979年まで
この時期になると、デイヴィッドに代わり、バーナードの3番目の妻、ジャネット・リーチがリーチ・ポタリーの経営をするようになった。

以上のように時期によりリーチ製陶所の性格は変わる。大きな流れとしては、アーティストのスタジオから、工房になっていったと言えよう。
1937年以降、リーチ製陶所には二種類の生産ラインがあった。ひとつは、芸術性の高い、高価な「個人作品」であり、もうひとつが、安価な「スタンダード・ウェア」である。この二種類の生産方法は、互いに補いあっていた。
日本でのリーチは、民芸運動に関係する窯を訪問している。こうした窯場には、ウェットハンドルという、取っ手のつけ方と、スタンダードウェアのデザインが伝えられた。またリーチの民芸運動に関して特筆すべき貢献は、柳宗悦の著書を英訳したことであった。

 

3 リーチの作品

鉄絵魚文壺 Vase“Leaping Salmon”
鉄絵魚文壺 Vase“Leaping Salmon”
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リーチの作品の代表例として、《鉄絵魚文壺 Vase“Leaping Salmon”》( 1931年, York Museums Trust (York Art Gallery))を取り上げる。これは、リーチ本人が生涯の最高傑作とみなしていた作品である。

この作品は中国の磁州窯系の作品を参考にして、上下のストライプの間に絵を入れるという構成を用いている。リーチは、東アジア流の筆を使えた。ここに描かれた魚の意匠においては、おそらくリーチが志賀直哉から聞いた、松尾芭蕉の「古池や」の句が参照されている。一方、地元産の土や釉薬を使うことに関しては、リーチはイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の流れの中にいる。

この作品からは、東アジアとヨーロッパの陶芸をそれぞれ学び、一つの作品において両者の要素を共存させるという、リーチの特徴が窺える。このように、「東と西の結婚」と「対抗産業革命」は実践されていったのだった。

 

まとめ:「東と西の結婚」と対抗産業革命

リーチはアーツ・アンド・クラフツ運動を引き継ぎ、それを発展させた人物といえる。その活動・思想の要点は、「東と西の結婚」と「対抗産業革命」という二つの言葉で理解できる。ウィリアム・モリスの思想と産業革命が日本に伝えられ、民芸運動として結実したこと、そして日本から今度は逆にイギリスへ「手仕事」の意義が伝えられ、産業革命や近代化への批判が加えられることにリーチは大きな意義を認めた。そして、彼は自ら日本とイギリスの間を往復しながら、日本や東アジアの芸術観と美意識をイギリスに伝え、また日本に対しては近代化の意義の再認識を促した。

こうしたリーチの生涯を決定し、方向付けた最も重要な転機は、1910年代後半の我孫子時代だった。自伝で当時を振り返り、リーチは我孫子での一年目を「ひょっとしたら、生涯で最も幸せな年」と書き残している。

(竹内百合子)