180.「志賀直哉と我孫子の人々」

第75回面白白樺倶楽部開催報告

講師

唐澤尚生(白樺文学館ボランティアスタッフ)
平林清江(白樺文学館ボランティアスタッフ)
竹下賢治(白樺文学館ボランティアスタッフ)
山崎甲東氏(白樺文学館コミュニティ会員)

期日

2007年8月14日(金)18時30分より

場所

当館コミュニティールーム

はじめに

今回は白樺文学館スタッフが、日常業務のほかに、日頃より各自テーマを持ってその都度調査を続けてきた成果を、面白倶楽部ご参加の皆様に発表することとなりました。我孫子に移住した白樺派の文人は、地元住民との親しいお付き合いが少ないと言われ続けていましたが、今回は志賀直哉の我孫子時代に焦点をあてて、移住の経緯、どんな住居に住み、近隣の方々とどんな交流がなされたのかなどを、ここで書かれた作品、手紙、日記、手帳に残されたメモ、そして同時代に付き合いのあった地元近隣の子孫の語り伝えなどに基づき、3人のスタッフと一人の当館の会員さんによって作成された報告の一部であります。

今後もひきつづきの聞き取り調査などの継続が期待され、次回の発表が楽しみであります。参加の皆様よりは、大変高い評価をいただきましたことを付記し、今回の報告に何度も長時間にわたりご協力いただいた、地元関係の皆様に改めて厚く御礼を申し上げます。(渡辺)

1.我孫子、志賀直哉の住まい

【我孫子移住】
我孫子は千葉県北西部、利根川と手賀沼の間に位置し、水辺に親しめる環境がある場所です。大正3(1914)年、柳宗悦が叔父嘉納治五郎の勧めで天神山に住まいを持ちました。その翌年大正4(1915)年、志賀直哉は柳の勧めで弁天山に転居しました。

志賀は「修行僧にせよ芸術家にせよ、気が向いたらすみかを変へる、一所不住、それが当たり前と思ってゐた。」という考えにもとづき、生涯を通し二十数ヵ所の土地に移り住みました。その中での我孫子時代は「生涯で最も仕事に打ちこんだ時期」だと阿川弘之氏は述べています。

柳は志賀の移住の世話をしました。志賀が土地購入後、柳から井戸掘削についての手紙をもらいます。柳は手紙の中で敷地の説明と井戸の掘り方を三つの図とともにアドバイスしています。

【三つの書斎】

「二階家」と呼ばれた書斎 (資料提供 津田氏)
「二階家」と呼ばれた書斎 
(資料提供 津田氏)
志賀は土地と茅葺の建物を購入し、三部屋増築後入居します。「縁から一段おりた椅子の部屋が応接間」「応接間の隣室には机と椅子の書斎」と瀧井孝作が述べています。洋間だったことがうかがえます。大正7(1918)年に書院造風の「二階家書斎」が母屋裏の崖上に、大正10(1921)年頃に「茶室風書斎」が志賀のデザイン指示のもと宮大工佐藤鷹蔵の手により建築されました。また、二階家と呼ばれた離れの書斎は和解が成立した父直温の援助があったのではないかと推測されます。

現在、「二階家書斎」は書家である津田尚氏のアトリエとして使用され、「茶室風書斎」は同氏の寄贈により旧志賀直哉邸跡に移築復元(昭和63(1988)年)されています。

「若い頃は書斎は北向きが好きだった。明る過ぎると、気が散るので、机の上だけ明るく、ほかは薄暗いといふやうな窓の小さい部屋が好きで、我孫子でも奈良でもさういふ書斎を作つたが、年のせゐで、今はさむゞした書斎は厭になつた。奈良でも仕舞ひには、二階の南向きの六畳を書斎にし、北向きの書斎は夏だけしか使わなかつた。」
上記の文章が「机と椅子の書斎」のやや閉鎖的な空間から開放的な空間の「二階家書斎」「茶室風書斎」の形態の変化が見ることが出来ると思います。

【自然なかたちの素材】

模型写真 三つの書斎を見る
模型写真 三つの書斎を見る
「机と椅子の書斎」「二階家書斎」「茶室風書斎」の三つの書斎をつくった志賀は書斎に自然なかたちの素材を多様に使用しました。例)「二階家書斎」杉皮の網代天井、一枚板を使用した廊下、出窓部分の流線型の支え、丸太を組んだ梁柱、12尺の松の床板、「茶室風書斎」網代天井、流線型のおとし掛け、虫食い紋の垂木、舟底天井などが挙げられます。

様々な意匠がとても楽しげなものに感じます。また、手賀沼の景色や自然の移り変わりを無意識に感じられる出窓(二階家書斎)や濡れ縁(茶室風書斎)の内外を曖昧にする建築要素がより自然観を養ったのではないでしょうか。

模型写真 「二階家」と呼ばれた書斎の内観イメージ
模型写真
「二階家」と呼ばれた
書斎の内観イメージ
心のこもった建築が当時の美しい手賀沼の光景や環境を志賀の文章とともに伝えてくれているのだろうと思います。

書斎の調査にあたり、津田尚氏、移築された書斎の管理などをされている福田氏の両氏の多大なご協力とご助言をいただきました。心よりお礼申し上げます。
尚、この調査は白樺文学館渡辺貞夫副館長よりも多くのヒントと助力をいただきました。

参考文献
[1]志賀直哉『志賀直哉全集 第八巻』岩波書店/[2]阿川弘之『志賀直哉 上』岩波書店/[3]柳宗悦『柳宗悦全集 第二十一巻 上』筑摩書房/[4]滝井孝作『志賀さんの生活など』日本図書センター/[5]『我孫子市史研究1979第4号』我孫子市教育委員会 兵藤純二「大正期・我孫子在住の作家たち」/[6]志賀直哉『志賀直哉全集 第七巻』岩波書店/[7]『日本建築学会大会学術講演梗概集(建築歴史・意匠)2006』日本建築学会 唐澤尚生「我孫子時代における志賀直哉の書斎について―二階家書斎の復元―」

唐澤尚生(からさわ・なおき)

2.志賀直哉と我孫子の人々

左近司詩子氏に仲介を依頼
白樺文学館と嶋根家・津川家を結ぶ仲介を筆者の友人左近司詩子(さこんじ うたこ)氏に依頼し、快く引き受けて頂けたことで調査も順調に進められたと思われます。氏は長年嶋根家の東隣に住まい、「白樺派と我孫子の人々との交流の記憶」が失われつつあることを嘆くお一人でもあります。

左から津川さん、左近司さん、嶋根さん
左から津川さん、左近司さん、嶋根さん

1.嶋根久次郎と志賀直哉
志賀直哉の作品『草津温泉−二度目の草津−』に描かれた嶋根家   D69〜71(志賀直哉全集 第5巻69ページより71ページ 以下これによる)  (注3)
「千葉県東葛飾郡我孫子町字新田といふので、実際、私の両隣りは農家だった」
大正11(1922)年の夏、坐骨神経痛の後養生のために直哉は一人で草津温泉へ出かけています。宿帳に書く名前、住所、職業を尋ねられた経験を書いたもので、嶋根家・津川家が農家であることが記されています。

島根家の香典帳(資料提供:島根氏)大正11(1922)年12月2日
島根家の香典帳(資料提供:島根氏)
大正11(1922)年12月2日
『日記』に見る嶋根久次郎(しまね きゅうじろう)
大正11(1922)年12月1日               L78
夜離れに寝る、
夜中時々人通りあり、

 

前夜隣りの島根久次郎心臓まひにて不意に死す、
前夜九時ころ一寸ミゾレする時、よそから帰り暫くして死せる由、
子供等、井戸の中に向かって「チャン還ってお呉れえ」と
呼びもどしていたとの事、

2.津川三蔵と志賀直哉
   明確、具体的な役割を担って登場

@直哉の『日記』に見る【隣家の人】は津川三蔵氏のこと
大正11(1922)年2月5日                  L15
篠崎かへる
その前写真うつす、
「楊子」かういふ短編を想ふ、
ユーモラスなもの、その内書くつもり
朝隣家の人来る  一時間程話して行く  廃犬届の事を頼む、
夜康子少し熱、大した事なし、
十一時頃より仕事、
神経痛いたむ、

我孫子時代の直哉は文献に見えるだけでも、5、6頭の洋犬(猟犬)を飼っていましたが、何らかの事情(注4)があって、廃犬の手続きを自発的に行ったものと想像されます。直哉はその面倒な手続きの実際を【隣家の人】津川三蔵氏に依頼したということが書かれています。

A『十一月三日午後の事』最後部に登場する
       【隣りの百姓】のモデルは津川三蔵氏

「おや、お父様が鴨を買っていらした。とうとよ」こんな事をいって妻が小さい
女の子を抱いて出て来た。
「みるんじゃない。彼方へ行って………」自分は何という事なし不機嫌に云った。
そして鴨は女中を呼んで隣りの百姓へやって、殺して貰った。それを自家で食う
気はもうしなかった。翌日それは他へ送ってやった。

大正7(1918)年11月3日のこと、直哉が従弟と二人で柴崎へ散歩がてら鴨を買いに出かけます。その途中に見かけた演習中の兵隊たちの様子と、鴨買いの次第が交互に描かれています。非合理的な軍隊の演習によって弱ってしまった兵隊の様子と、買って帰った瀕死の鴨をオーバーラップさせています。

この季節鴨を買った日には、おそらくいつもそうであったように【隣りの百姓】に頼んで鴨を絞めてもらっていたのだと思われます。こうした両家のやりとり、生活習慣があって津川三蔵氏をモデルにして書かれたのが、『十一月三日午後の事』最後部であると推理しました。

以上のように、三蔵氏は「廃犬届をする」・「鴨を絞める」などの日常的な支援を志賀家のために行った人物で、常に明確・具体的な役割を担って登場しています。

なお、津川徳枝さんに【隣家の人】及び【隣りの百姓】を津川三蔵氏としても誤りが無いか確認したところ、両方とも「おじいさんの三蔵」に間違いないと明言されました。
三蔵氏と共に暮らした徳枝さんの実感と直感から生まれた確信です。

さて、「鴨を買う」ということの記述は、大正11(1922)年11月3日、大正12(1923)年1月10日の『日記』にあります。どうか、ご参照下さい。

また、この作品は戦前までは野鳥(水鳥)を多く食用とした時代背景があったことをふまえてお読みいただくとより鑑賞が深まるのではないでしょうか。

【津川ますと志賀直哉  その1】

津川てる 津川ます 津川三蔵 津川冨久江(徳枝さんの妹)(資料提供:津川氏)
津川てる 津川ます 津川三蔵
津川冨久江(徳枝さんの妹)
(資料提供:津川氏)
大正5(1916)年7月30日の晩(志賀家の長女慧子の急病発生)
劇的体験をした津川ますさん   

津川ますさんにとって初孫の徳枝さんが昭和13年1月に誕生しました。ますさんは、徳枝さんを殊の外慈しみ世話をされたとのことです。一方初孫の徳枝さんも、優しいおばあさんからいつも聞かされた「こんばん提燈を持って、志賀さんを回春堂まで案内したこと」、「慧子ちゃんのために沼向こうの氷蔵まで氷を買いに行ったこと」を決して忘れないと心に決めて成長されました。

津川ますさんが、「提燈をさげて志賀さんを回春堂まで案内した」という事実は、作品(『和解』)中に活かされていませんが、大正5年7月の時点で既に津川家と志賀家との間には、親密な隣人同士の関係が成立していたことになります。 津川ますさんは暗闇の中、隣家の急を聞きとっさに赤ちゃんの急病を察知して、すばやい判断と的確な行動が出来る聡明で敏捷な女性であったのです。このますさんの「敏捷なイメージ」は、生前のますさんを知る左近司氏(前出)も同意見であることを申し添えておきます。

【津川ますと志賀直哉  その2】

『矢島柳堂(鷭)』に見る津川ますさんと「鰻の流しばり」のこと
ある日、お種が「生きてる鷭よ、隣りのお婆さんが呉れたんです」「この間鷭の話をしたら、鰻の流しばりを田へ立てて置くと捕れると云って、それで捕って呉れたの」と風呂敷を被せた小さいものを両手に持ち入ってきました。喜んだ柳堂は鷭を自分に馴れさせようとして、しつこくあれこれと世話を焼きましたが、翌朝鷭は隣りから借りた箱の中で長い足を延ばして死んでいたのです。足元には、餌の鰌や蜻蛉の幼虫が這い回っていました。

手賀沼の鷭(資料提供:鳥の博物館友の会会員 岡本氏)
手賀沼の鷭
(資料提供:鳥の博物館友の会会員 岡本氏)
以上が『矢島柳堂(鷭)』のあらすじですが、この小品の中にモデルとしての津川家が4箇所も登場している事に気づきます。直哉との関わり方の描写が細かく、そして具体的で明確な津川家からの支援の形が述べられています。特に、「鰻の流しばりを田へ立てて置いて、鷭を生け捕る」ノウ・ハウを持つ「隣りのお婆さん」こと津川ますさんの姿が印象的です。

残念ながら余り読まれず、研究の対象にも取り上げられることの殆ど無い作品ではありますが、昭和35年以前(手賀沼開発以前)の手賀沼の本当の美しさ、豊かさが描かれていると津川徳枝さんはおっしゃいます。

その上、この作品は徳枝さんと、徳枝さんのお母さんとの漁の記憶を呼び覚まし、代々受け継がれて来た「鰻の流しばり」や「つくし」そして「鰻鎌」漁法などの思い出話を、実に生き生きと話してくれることになりました。

小品ですが、沼の自然と周辺の人々の暮らしが鷭を通して鮮やかに描写され、「野性の生の馴化」(注5)への挑戦と失敗をえがいて、鳥に象徴された自然と人間との関わりを問う作品となっています。日本画家である主人公と漁労を生業とする西隣の家族との、鷭に対する意識の相違も面白く、ユーモアと清澄感漂う名作と言えます。

現在の手賀沼には往時ほどの多様性(さまざまな生物や植物などの)も、生命の輝くエネルギーももはやありません。

けれども、志賀直哉は『矢島柳堂(鷭)』においてそれらを描き残し、清らかな水をたたえていた頃の手賀沼の自然を永遠の時間の記憶の中に留めて、現在の私たちに示してくれていると言えるでしょう。

以上

《注記》
注1:『我孫子の文化を守る会二十年の歩み 東葛我孫子・手賀沼』(平成13年5月27日発行 我孫子の文化を守る会 会長三谷和夫 )/注2:『志賀直哉全集』岩波書店 全22巻(2001年最終版)/注3:『志賀直哉全集』第5巻 69ページから71ページ という意味。/注4:「何らかの事情」についての関連記事として、「畜犬に就いて」(『志賀直哉全集』第3巻)があります。/注5:呉谷充利著『志賀直哉、上高畑のサロンをめぐる考察−生きられた日本の近代−』によると、「直哉の自然観を探るうえで、『矢島柳堂』四部作が重要な意義を持っている。これらに流れる主題は野性の生の馴化であり、自然と人間の関わりを根本的に問うことである」としています。2003年3月20日 (株)創元社

平林清江(ひらばやし・すみえ)

3.「和解」にでてくる沼向こうの氷蔵について

「我孫子市史研究6」に沼南町史編纂係高野博夫氏が 沼南町大井・石原家の氷冷舎と題して沼南町大井772番地の石原家が明治の中頃手賀沼畔の自然と谷津田の清水を利用して天然氷を製造し船を使って各地に卸していたこと、製氷、販売、などについても石原家の古文書を基に詳述している。そのおわりに我孫子に住んでいた志賀直哉が小説「和解」の中に沼向こうの氷蔵として氷冷舎を登場させていると書いてある。しかし氷蔵が実際どこにあったのかについての記述は無い。

「柏 その歴史・地理」相原正義著 崙書房出版 には大井の氷冷舎 と題して志賀直哉の「和解」にでている氷蔵は大津川河口の右岸から東500〜600メートルほどの手賀沼の縁に氷場があったと述べられているが明確な位置が判定できなかった。

そのため私の氷蔵の位置確認作業は昨年(平成18年)2月に渡辺副館長から上記「我孫子市史研究6」を示されて始まった。

最初は大井772番地の石原家の裏側の低地がそうだと思い込んだ。その後石原家現当主石原貞昭氏の名刺を渡辺副館長に示され石原氏を仕事場に訪ねた。

氷蔵跡から旧志賀直哉邸跡を見る
氷蔵跡から旧志賀直哉邸跡を見る
石原氏から上記相原正義氏の本に詳しく書いてあること、石原家の土地を具体的に教えられた。偶然にも我が家の二軒隣の石戸祥氏(氷蔵近くで出生)が親から教わった氷蔵の場所を明確に記憶しており、平成18年9月23日二人で出かけ現場で掘り抜き井戸の場所も含めて氷藏の位置が確認できた。
山崎甲東(やまざき・こうとう)