183.「李朝と柳宗悦」

第76回面白白樺倶楽部開催報告

講師

田中 雍子(日本民藝館館友)

期日

2007年9月14日(金)

場所

当館コミュニティールーム

講師写真
講師写真
本日の講師、田中先生は、1958年(昭和33年)の夏、柳先生から「民藝館に来ませんか?」と誘いを受けて以来民藝館に勤務、現在も民藝館の活動に参画し、各地の民藝の発掘、研究調査をされていらっしゃいます。今回の講演では、生前の柳宗悦と民藝について、楽しいエピソードをまじえつつ、スライドを用いて明快に解説していただきました。講演の要旨をご報告いたします。

 

1、我孫子天神山

10年前に教育委員会の招きにより「柳宗悦」をテーマに講演をするため我孫子を訪れた事があります。その時天神山の三樹荘のお庭も拝見しました。天神山は、柳宗悦が妻兼子と新婚時代を過ごした地です。

染付秋草文面取壺
染付秋草文面取壺

その家を1914年(大正3年)、後に朝鮮美術保存のために力を尽くした淺川伯教(あさかわのりたか)が訪問しています。雑誌『白樺』に紹介されたロダンの彫刻を柳宗悦が保管していると聞いて、実見するためでした。その際、伯教が手土産として持参した李朝の「染付秋草文面取壺」を見た宗悦は、この李朝陶磁との巡り合いで、一気に陶磁器の美に開眼し、朝鮮民族の持つ美意識に大きな感動を受けることになります。それまでウイリアム・ブレークの研究に没頭し、ルノアール、ロダン等西洋芸術を研究していた宗悦でしたが、淺川伯教の訪問を契機として、東洋回帰することになりました。当時柳宗悦宅の応接間には梵字の曼荼羅がかけてあり、東洋に無関心であったわけではありませんが、西洋から東洋へのターニングポイントになったのは、伯教が持参した「染付秋草文面取壺」でありました。

 

2、柳宗悦初めて朝鮮半島に渡る

1915年(大正4年12月)淺川伯教(注1)が弟巧(注2)とともに我孫子を訪れています。柳宗悦と淺川兄弟、そして「染付秋草文面取壺」との出会いが1916年(大正5年8月)に柳を朝鮮に赴かせました。柳はこのとき京城の巧の家に滞在しましたが、巧の家では、朝鮮の人々が日常使う工芸品を、そのまま暮らしに取り入れていました。巧の真摯で温かい人柄や朝鮮にとけこんだその生き方に共感し、意気投合して、柳は以降、巧さんを敬愛していきます。陶磁器のみならず、朝鮮工藝の全般に対する愛着と、そういう器物を作り、用いている朝鮮の人々の暮らしや、民族性に関心を持ちます。こうして淺川兄弟と柳宗悦は朝鮮美術工芸の美しさに惹かれ、深くかかわっていくことになります。柳先生は以降1929年(昭和4年)までの間だけで15回も訪朝しています。(宗悦29歳〜40歳)

 

3、光化門保存運動と朝鮮民族美術館の設立

会場風景1
会場風景1
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日本の統治下にあった朝鮮各地で1919年(大正8年)3月1日に始まった全土的な抗日・独立運動に対し、日本の官憲は武力で弾圧しました。柳は、決然とペンをとり、読売新聞(5月20日から24日)に『朝鮮人を想う』を発表しました。「吾々の国が正しい人道を踏んでいない」と日本政府を批判しました。日本の朝鮮支配を批判した数少ない日本人でした。また、1922年(大正11年9月)『朝鮮の友に贈る書』『失われんとする一朝鮮建築のために』を雑誌『改造』に発表し、宮殿正面の光化門を撤去し、朝鮮総督府庁舎を建てようとするのに対し、光化門の保存を訴えました。

また1920年(大正9年)には、淺川巧は我孫子の柳宗悦を訪れ、朝鮮民族のために美術館の設立計画を相談し、運動を始めています。柳と浅川兄弟の三人は、朝鮮にとって厳しい時代背景にもかかわらず、その美しさを生み出す朝鮮民族を敬愛しました。朝鮮工芸品の保存の必要性を強く感じ私財を投じて、一つ一つと収集を重ねました。朝鮮総督府から再三、「民族」の文字を取るよう圧力を受けましたが、柳は頑として譲らず、1921年(大正10年)『白樺』1月号に「朝鮮民族美術館設立趣意書」を発表し、資金集めに妻兼子と共に講演会、音楽会を開き大変な努力をし、1924年(大正13年)4月、景福宮内の緝敬堂に「朝鮮民族美術館」を開設しました。膳や壺をはじめ、たんすや屏風など三百点を超える工芸品が展示・保存されました。

 

4、淺川巧の墓参り

今年の7月、山梨県の淺川伯教・巧兄弟資料館で講演する機会があり、そのあとソウル3泊4日で淺川巧さんのお墓参りに行って来ました。朝鮮人に愛されていた巧の墓はその名も忘憂里という朝鮮人だけの墓地にあります。記念碑には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」。と刻まれています。お参りしていると、日本と朝鮮の悲惨な歴史のなかで、没後約80年の現在も尚人々に愛慕されている人があることに心が清められ安らぎを与えられます。

 

5、李朝工藝から日本の民藝運動へ

柳宗悦は、李朝工藝の美が無名の工人により造られたものであることに着目し、その眼を日本国内の工藝にも向けていきました。1923年(大正12年)木喰上人の木喰仏(もくじきぶつ・微笑仏と称される民間の木彫仏)を見出し、1924年から3年間をかけてこの仏像の研究をしました。また上人の足跡を追って日本全土を踏査したことにより、各地の民衆的工芸品の発掘発見がなされました。彼の思想は、多くの賛同者、協力者を得、1936年(昭和11年)日本民藝館の開館へとつながっていきます。李朝工藝の美への敬念を込めて、日本民藝館本館階上の一室には、今も陶磁器をはじめ木工・石工・金工・民画など李朝工藝の展示を欠かすことなく続けています。

 

6、民藝とは何か

会場風景2
会場風景2
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「民藝とは民衆が日々用いる工藝品との義です。それ故、工藝品の中で、最も深く人間の生活に交わる品物の領域です。」と柳は言っています。天才は確かに素晴らしいものを造るでしょうが、平凡な人が平凡な暮らしのなかで、自然にやすやすと美しいものをつくりうる世界があるということは、人類全体に対する福音だとおもいます。柳先生がいらっしゃらなかったら、民藝は自覚され評価されたでしょうか、こうして民藝のお話ができるのも、運命としかいいようがないとあらためて師のご恩が身にしみて、涙がこぼれるような嬉しさを味わいました。

(矢野 正男)

 

参考文献
「評伝柳宗悦」 水尾比呂志著 ちくま学芸文庫 
「柳宗悦」 鶴見俊輔著 平凡社
「民藝四十年」 柳 宗悦著  岩波文庫
「朝鮮の土となった日本人」 高崎宗司著 草風館
「民藝とは何か」 柳 宗悦著 講談社学術文庫
「民藝」2006年8月号   日本民藝館
              

(注1)淺川伯教のこと
柳宗悦を訪ねた淺川伯教は、1906年(明治39年)山梨師範学校を卒業して、山梨の尋常小学校で教職に就いていました。雑誌『白樺』を購読し、ロダンに憧れ、彫刻家を目指していたが、1913年(大正2年)一家を連れて朝鮮に渡り、京城府の尋常小学校の訓導になります。。伯教は朝鮮の博物館や骨董品店を数多く回り、様々な美術・工芸品に触れます。当時高麗の青磁はすでに美術品として国際的な評価が与えられており、高価で簡単に手に入るものではありませんでした。ある晩、京城の古道具屋の前を通ると、ほんのりとした明かりに照らされた中に、何ともいえないふくらみのある白い壺に伯教の目はくぎ付けになります。これが、李朝白磁との運命の出会いとなりました。伯教は1919年(大正8年)突然、教師を辞し、彫刻家をめざし、単身上京し新海竹太郎の内弟子になります。翌年、朝鮮人像の「木履の人」が帝展に入選しましたが、1922年(大正11年)彫刻会の派閥争いを嫌い、再び朝鮮に帰ります。その後、協力者を得て朝鮮全土を歩き、朝鮮陶磁の窯場670箇所を調査しました。多才な伯教は朝鮮陶磁史の研究者で、蒐集家であり、「染付秋草文面取壺」(日本民藝館蔵)「青花辰砂蓮華文壺」(大阪市立東洋陶磁美術館蔵)をかつて所蔵しており、朝鮮古陶磁の神様と呼ばれています。弟巧とともに柳宗悦の朝鮮民族美術館の設立に尽力します。著書に「釜山窯と対州窯」(1930,菜壺会)「朝鮮のやきもの・李朝」陶磁全集第17巻(1960,平凡社)「李朝と陶磁」(1956、座右宝刊行会)があります。  

(注2)淺川 巧のこと
伯教の弟、巧は、植物の栽培が得意で、1909年(明治42年)山梨県立龍王農林学校を卒業し、秋田県大館営林署に造林技師として就職しましたが、兄を敬慕する巧は、1914年(大正3年)大館の営林署を辞めて、朝鮮に渡ります。7月朝鮮総督府農商工部山林課の技手として就職し、朝鮮国内の林業に従事します。当時の朝鮮の山野は「清」「ロシヤ」や日本人によっても乱伐され、禿山状態に荒れていました。巧は朝鮮語を学び、衣食住においても朝鮮人と同様に生活しました。1916年(大正5年)農林学校の親友淺川政歳の姉みつえと結婚します、翌年長女園絵が生まれました。巧は白磁・青磁のみならず朝鮮文化の研究をしながら、本業の造林に力を入れ、全国を回ります。1921年(大正10年)みつえが死去します。その後1925年(大正14年)大北咲と再婚します。養苗の講演で朝鮮各地を巡回していた巧は、長期出張がたたり1931年(昭和6年4月1日)僅か40歳で死去。朝鮮人の白衣を着せ純朝鮮の葬礼で、朝鮮人の共同墓地に葬られました。生前『朝鮮の膳』を著し、死後「朝鮮陶磁名考」が出版されました。当時園絵さんは「園ちゃんのお父さんは朝鮮人でしょ」といじめられたそうですが、「あの頃家では朝鮮のお椀や、お膳などばかり使っていたが、今思えば宝の山に住んでいたのよね。」と述懐されたのを思い出します。

(文中敬称略)