185.「富本憲吉と一枝」

‘憲吉と一枝’ 運命の出会い
第78回面白白樺倶楽部開催報告

講師

山本 茂雄氏 (富本憲吉記念館副館長)

期日

2007年11月9日(金)18時30分より

場所

当館コミュニティールーム

講師写真
講師写真

大正時代を代表する雑誌『白樺』・・・その頁を繰ると、創刊当時の青年たちの意気込みがありありと伝わってきて、さわやかな感動を呼び起こされることがあります。さらに巻末の広告欄からは、当時の文化や風俗を垣間見ることができ、これまた楽しい発見の連続です。「三越呉服店」や「丸善株式会社」などとともに掲載されている他の文芸誌や当時刊行された書物についての広告・・・。与謝野晶子の「新訳源氏物語」特価販売のお知らせ、雑誌『スバル』の目次や書き手の掲載、また竹久夢二の画集刊行広告など。その中に雑誌『青鞜』の広告もありました。

白樺第3巻第10号大正元年10月1日発行 白樺第3巻第10号
大正元年10月1日発行
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書き手の中に主宰者・平塚らいてうと並び“紅吉”という名があります。『白樺』の仲間であった富本憲吉と出会い、人生を共にし、いずれそれぞれの道に分かれていくことにもなった尾竹一枝のペンネームです。『白樺』の巻末広告中にその名を見出だした時、その後の二人の歩んだ道を思い、しばし不思議の感に打たれたものでした。
今回の「面白白樺倶楽部」の講師は、「富本憲吉記念館」副館長・山本茂雄先生です。富本憲吉・一枝夫婦の人生、出会い、それぞれの仕事、作品への思いなどについて語っていただきました。以下は、ご講演の一部を要約したものです。

富本憲吉は1886年(明治19)大和(奈良県)の旧家の長男として生まれました。東京美術学校で建築を学んだ後、ロンドンへ留学、西洋美術について知識を深めました。帰国後バーナード・リーチと知り合い、彼を通じて『白樺』の仲間との交友が始まり、さらには版画や楽焼の世界も体験します。

会場風景1
会場風景1
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一方尾竹一枝は、1893年(明治26)富山市で生まれました。著名な日本画家一族の中で育ち、東京女子美術学校で美術を学びました。明治44年雑誌『青鞜』が創刊されるや、その活動に参加。身長164センチ、希望に燃える颯爽とした女性だったようです。彼女は、『青鞜』の活動に寄与するため、芸術について思索を重ねるうち、『白樺』(明治45年1月号)に掲載された富本憲吉・南薫造の往復書簡上に展開された芸術論に、大いに刺激を受けます。そして大和安堵村にある富本の工房を訪ねたのです。

二人の出会いは、富本の方にとって、より衝撃的だったようです。「お出でになった時、なにを申し上げたか、どういうものをご覧にいれたか、一切只今から考えてもわかりません。・・・」その後の一枝宛の葉書に、富本は記しています。しかし当時一枝は、『青鞜』の主宰者・平塚らいてうに夢中でした。二人は同性同士でしたが、深い愛情で結ばれていた時期があり、それは周知のことだったようです。が、やがてらいてうに若い青年の恋人ができ、二人の仲は破綻します。失意の中らいてうの元を離れた一枝は、新たな雑誌『番紅花』(さふらん)を発刊することになり、その雑誌の装丁を、富本に依頼しました。再びめぐり合った二人は、1914年(大正3)結婚します。

二人の新婚生活は、富本の故郷である大和安堵村で始まりました。封建的な土地柄ではありましたが、富本が二人の生活の理想として掲げたのは“二にして一”(二人でひとつ)という、全く新しい近代的な夫婦の形でした。

1917年(大正6)、翌1918年(大正7)の二回、東京神田流逸荘で「富本憲吉夫妻陶器展」が開かれました。“夫妻の陶器展”とはどういうことなのか、それが私にとって長いこと謎になっていました。しかし最近こういう結論に達しました。二人が合作したと思われるものが、そういう眼で見ると確かにある、ということです。記念館で展示している作品にも、大正6、7年のものの中には3点ほど、一枝の作品があるのではないか、と思われます。

記念館には「富本憲吉夫妻陶器絵巻」というものがあります。10メートルの長さの紙中に30もの陶器の絵が墨で描かれているのですが、その中にはどちらが描いたのかわからないものがいくつかあるのです。最後には[憲吉・一枝]とサインがあるのですが、二人が話し合いながら描いている様が眼に浮かびます。

会場風景2
会場風景2
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しかしこの後、「夫妻展」は開かれることはありませんでした。二人は次第に溝を深めていき、一枝の中には男と女は全く違う、“二にして二”なのだ、という思いが生まれていたようです。大正末頃一家は東京に居を移しますが、二人の活動の方向はそれぞれの道に分かれていきました。夫婦間の危機は常にありながらも、互いに認め合うところもあり、二人は煩悶を重ねたようですが、昭和21年憲吉は一人でふるさと大和安堵村の家へ帰ります。一枝は同行しませんでした。

しかし私には、二人がどこかでつながっていたように思えてなりません。二人の結婚が失敗だったのではなく、あの結婚があったからこそ、富本の仕事、作品が生まれたのだと思っています。富本自身が、自分を刺激し触発してくれる仲間としての妻を望んだ、ということもあったのでしょう。理想を求めるに急で、妥協を嫌った二人の生活は、常に危機をはらんだものだったでしょうが、芸術という一点において、相手を認め、信じる生活でもあったと思われます。

(山本茂雄先生 談)

富本一枝代筆の憲吉書簡 昭和18年8月13日
富本一枝代筆の憲吉書簡 
昭和18年8月13日
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ここに、力強く、流れるように伸びやかな筆致で書かれた、一通の手紙があります。大阪阪急百貨店美術部 山内金三郎宛(「白樺文学館」所蔵)のこの手紙は、昭和18年一枝が憲吉に代わって書いたものです。今回山本先生によって、彼女の代筆であることが確認されました。内容は、富本の作品や箱書きについてのさらりとしたものですが、決別が予感される時期でありながら、二人が協力し合って芸術活動をしていたことがわかります。愛憎半ばする日々の生活の中でも、認めざるを得ない存在感をもって、互いが互いの心の中にあり続けたという印象を受けます。人と人とが出会い、そのことによって成し遂げられた仕事、人生があったことを思わせる一通の手紙です。
(西村さち子)