193.「近代日本における文士村について」
―鎌倉と我孫子―
第80回面白白樺倶楽部開催報告

講師

浪川 幹夫氏 (鎌倉市教育委員会学芸員)

期日

2008年6月13日(金)17時より

場所

当館コミュニティールーム

文士村の代表ともいわれた鎌倉文士村は、大正8年前後から雑誌「白樺」派の同人有島3兄弟、園池公致、長与善郎ほか同誌にかかわった人たちの集住が形成されていたと言われています。一方、我孫子に、白樺派の同人柳宗悦が大正3年に住居を移し、翌年に志賀直哉、その翌年に武者小路実篤らが集まり文学、芸術について日夜語りあったとの記述が残されています。

今回、浪川先生に、主に鎌倉と我孫子の白樺派の文士村形成についてご講演をお願いしました。以下、講演要旨を報告させていただきます。


浪川先生
浪川先生
講演のお題を頂いて、私には難しいテーマだと思った。我孫子にいた文人たちの活動を掘り下げたことがない。今回、調べてみて鎌倉と似ているところがあることがわかった。レジュメの項目に沿って話を進める。

1、近代我孫子の特徴

皆さんの方が詳しいと思うので話の導入部として聞いてほしい。
我孫子は、風光明媚な場所として、北の鎌倉といわれるように文人たちが居を構えた。これは、文学的なところでそう言われているのではないか。都内から40キロ圏内にあり、風光明媚で、水辺があり、静かな場所…、鎌倉と似ている。白樺派の活動の中心地であった点もそうである。

2、我孫子に住んだ白樺派5人について

文士村の形成には、誰かしら火付け役がいる。我孫子は柳宗悦で、大正3年から10年まで住んでいる。妻の兼子は、声楽家として有名である。武者小路実篤は、大正5年に藤澤から我孫子に移って、同7年には、日向に新しき村を作った。志賀直哉は大正4年から12年までで、京都に移っている。我孫子に来る時の話として、志賀直哉全集に掲載している「稲村雑談」に志賀が水辺の手賀沼を気に入った様子がうかがえる。また、鎌倉との共通点は、都会に近く、静かであること。文学者にとって住むための要素である。

3、近代鎌倉の特徴と、いわゆる鎌倉文士村について

渡辺副館長からの「我孫子が先か、鎌倉が先か」との問いには、率直に鎌倉の方が古いと思う。鎌倉の文人には3系統ある。1つは、島崎藤村や星野天知らが、明治時代に文学界を創刊した。文学界の文士村があった。
もう1つは、白樺派の文人たちの子供の頃の話である。明治20年代の鎌倉は、政財界の要人や華族、官吏、外国人らの別荘が少しずつ建ち始めていた。同32年には、鎌倉御用邸もできた。

そのような鎌倉に、大正8年前後から12,13年頃にかけての時期に有島武郎、生馬、里見とんの三兄弟、武者小路実篤、園池公致、長与善郎、木下利玄、千家元麿、岸田劉生ら白樺派同人や何らかの形に関わった人々によって文学者の集住が形成された。白樺派の人々の鎌倉居住はほぼ関東大震災までである。

彼らとは別に、大正の中頃から末期にかけて芥川龍之介、久米正雄、大仏次郎ら新興の文学者が鎌倉に住み始めた。我孫子の文士村の火付け役が柳宗悦なら、鎌倉文士村の火付け役は夏目漱石である。まず、ドイツ文学研究者の菅虎雄が明治43年から鎌倉に住み始める。一髙以来の友人夏目漱石や芥川、久米とつながり、鎌倉来住のきっかけになった。

鎌倉文士村の特徴として、文人たちがただ住んだ、文筆活動をしたということだけでなく、社会的貢献もしている。例えば、久米、大佛の発案で行われた「海の謝肉祭」は、戦時中は中断したが、その後復活して昭和37年まで続いた。かなり、本格的なカーニバルが行われていた。昭和30年代の乱開発の反対運動の中心人物が大佛次郎等文人たちで、国会陳情まで行っている。同13年の鎌倉ペンクラブ会員名簿には学者等文筆活動に携わった人も含めて42人の名が記載されている。ペンクラブに加わらない文学者等を加えると、当時50人近くが鎌倉に居住、滞在していた。

4、鎌倉、我孫子における白樺派の人々について

白樺派に限って言えば、武者小路実篤、岸田劉生、里見とんが比較的長く住んでいた。我孫子では、柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤。想像だが、鎌倉と我孫子と頻繁に行き来があったのではないか。その形跡を調べてみたが、でてこなかったが、我孫子は東京から40分。鎌倉も横須賀線で1時間以内で来られることがあった。また、鎌倉は社寺も多く、散策にも適していた。我孫子は水辺が美しく、散策できる静かな所である。そんなところも共通点として言えるのではないか。

これで講演の話は終わりにしたいが、少し予定の時刻まで時間があるので、質問に答える形で話を続けたい。


参加者から、「文士村の定義について」「岸田劉生と志賀直哉の我孫子居住時期の交流について」「我孫子の別荘文化について」「白樺派の発祥の地としての我孫子について」などの質問等があり、「当時、我孫子も鎌倉と同じように別荘地として人気があったこと、それが文人たちの我孫子居住につながっているのではないか」との興味ある発言もありました。

(渡辺 通夫)