194.「柳宗悦の思想の力」
―いま求められる「複合の美」の平和思想―
第81回面白白樺倶楽部開催報告

講師

中見 真理氏 (清泉女子大学教授)

期日

2008年7月11日(金)17時より

場所

当館コミュニティールーム

中見先生
中見先生

今回、中見真理先生に、柳宗悦の民芸運動に貫かれている平和思想について、より深く、解りやすくお話をお聞かせいただきました。 尚今回に続いて、8月23日(土)14時より中央学院大学(我孫子市)において、柳宗悦・兼子の記念碑をつくる会主催による講演会「柳宗悦と朝鮮・韓国」が開催予定されております。今回の講演とあわせてのご参加をお勧めいたします。

以下、先生から提供いただいた講演要旨を紹介させていただきます。

講演要旨

柳宗悦とは一体何をした人だったのでしょうか。民芸運動、白樺派同人、ブレイク研究、光化門擁護、朝鮮民族美術館開設、木喰仏発見、一遍上人研究沖縄方言論争、アイヌ文化賛美、等々――これら多種多彩な活動のなかに、中核となるものを見出すことが出来るでしょうか。(写真の出典:『柳宗悦全集』筑摩書房、第2巻)

柳宗悦写真柳宗悦写真
写真の出典:「柳宗悦全集」

私は、それを取り出すことが可能だと考えています。柳の「思想と行動」全体にはひとつの問題意識が貫かれており、その原型が、我孫子在住の時期に形成されたとみています。

1919年5月、柳は、我孫子の地から、日本による朝鮮政策への異議申し立てを開始しました。朝鮮に関する活動は、我孫子を離れてからも続けられ、1922年の光化門擁護、1924年の朝鮮民族美術館開設については、よく知られています。

では柳はなぜ朝鮮問題と深くかかわることになったのでしょうか。その背景として、1914年に浅川伯教が、李朝染付秋草文面取壷(瓢型瓶)を我孫子の柳邸に持参し、柳がその美に深く感動したということが、一般には指摘されています。しかし柳著『朝鮮とその芸術』(1922年刊)の序文には、同書執筆の動機として、朝鮮芸術への思慕とともに、朝鮮問題への公憤があったと述べられています。そこには「目前に悩ましい光景が開展されて」いる時に、「黙している事が私には一つの罪と思えた」とも書かれています。

あまり注目されていませんが、朝鮮問題への積極的な行動がとられ始めた頃、柳が宗教研究にも力を入れていたということが見逃されてはならないと思います。『宗教とその真理』(1919年刊)の序には、「野に咲く多くの異る花は野の美を傷めるであらうか。互は互を助けて世界を単調から複合の美に彩どるのである」と記されています。これこそ柳の生涯を決定づけたとともに、朝鮮問題への姿勢の根底にあった考え方でした。私は、これを「複合の美」の思想と呼んでおります。「複合の美」の思想は、我孫子での思索から生まれました。

「宗教とその眞理」写真「宗教とその眞理」写真
『宗教とその眞理』表紙の写真の出典:三重県立美術館編『柳宗悦展』カタログ

しかもその形成に際して、武者小路実篤やバーナード・リーチから、大きな思想的影響を受けていました。では武者小路からは、何を学んでいたでしょうか。

先ず平和問題への関心が喚起されたということです。武者小路は、日露戦争時にトルストイ思想に心酔し、平和への強い関心を持つに至ります。第一次世界大戦での日本の行動にも批判的でした。さらにアナキズム的な政治権力批判・社会批判の観点を持っており、そこから植民地主義についても冷ややかにみていました。この文脈において、『近代思想』時代の大杉栄が、白樺派の人たちに与えた思想的影響についても着目する必要があるでしょう。

1918年、武者小路は「新しき村」の実践に飛び込んで行きます。この試みに柳は強い関心を寄せていました。柳の民芸における協同体重視と「新しき村」にも共通する性格がみられました。

柳による「新しき村」の評価柳による「新しき村」の評価
(出典: 「之は深い仕事の一つだ」『新しき村』創刊号1918年7月)

以上のような武者小路の思想と実践の影響なしには、柳の朝鮮に関する活動は生まれなかったのではないかと考えられます。

新しき村を訪ねた柳写真新しき村を訪ねた柳写真
(写真の出典:『柳宗悦全集』筑摩書房、第5巻)

一方、「東洋と西洋の結婚」を生涯のテーマとしたリーチは、当時の最先進国英国からやってきた人物でもありました。柳はリーチを通して、最先進国から、東洋あるいは日本・中国・朝鮮等がどう見えるかを知らされることになったに違いありません。また最先進国における近代批判の思想についても教えられました。そこから日本の向かうべき道には、最先端の模倣とは異なった方向があることに気づかされて行きます。さらにリーチとの意見交換によって、戦争反対の思想が一層強固なものともなりました。1918年にリーチに宛てて、「事態が緊迫すれば、僕は直ちに戦争反対の精神運動を起こすつもりです」と述べていたことと、柳が、植民地での武力行使を大国間の戦争と同等にみる観点を持っていたことを合わせ考えるならば、柳の朝鮮に関する活動は、「戦争反対の精神運動」を意識してなされていたととらえることもできます。

リーチと積極的に意見交換リーチと積極的に意見交換
(書簡の写真の出典:三重県立美術館編『柳宗悦展』カタログ)

武者小路やリーチから大きな影響を受けていたとはいえ、柳には独自の思想的歩みもみられました。英語が得意だった柳は、英書を多読したのみならず、英米知識人と対等に深いレヴェルで意見を交換することも出来ました。クエーカーの絶対平和思想に共鳴した柳は、その観点から、第一次世界大戦当時日本に滞在していた英国人ジャーナリスト、R.スコットの考えを批判したり、B.ラッセルの著作に批判的見解を書き込んだりしながら、ガンディーの非暴力直接行動に通じる平和思想を自分の内面にしっかり定着させて行きました。その結果、柳の「複合の美」の思想は、平和思想としても深化することとなりました

講演風景写真1
講演風景写真1
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また、なすべき仕事について悩んでいたリーチに対しては、「師」としての側面も持っていました。柳は、リーチを中国から呼び戻し、我孫子の柳邸の敷地内に仕事場を提供し、作陶するようすすめました。その結果、以後リーチは、陶芸の道に邁進することとなったのです。

柳独自の思想形成は、戦争への姿勢を武者小路と比較したとき、一層鮮明なものとなります。「人類」を重んじながら、コンプレックスのために西洋人への人種的反感を募らせ、日本人としてのプライドの拠り所を最終的には天皇中心の日本国家に求めて戦争肯定へと向かった武者小路の軌跡は、柳とは明らかに異なるものでした。

柳の場合には、日本が世界に誇ることのできるものとして、民芸を拠り所にし続けることが可能でした。民芸はそれぞれの地方色を重視するものでもあり、戦時下においても彼の「複合の美」の平和思想は、崩れることがありませんでした。
柳の「複合の美」の平和思想の出発点には、クロポトキンの相互扶助思想の受容があり、それはさらに、高低・強弱・大小等々の対照的性格を相互依存とみるブレイク思想によって強化されて行きました。

具体的な物の美を先入観にとらわれずに認めることや、国境・民族をこえた人物との直接的交流によっても、柳は、劣等感ならびに優越感をかなりバランスよく克服していました。この結果、近代日本が歩んだ「ダーウィニズム」とは異なる、クロポトキンの路線を貫き通すことが出来ました。

ダーウイニズムとは異なるクロポトキンの相互扶助の路線ダーウイニズムとは異なるクロポトキンの相互扶助の路線

多民族・多文化共生が求められる現在、世界を一色に向かわせるのではない、「複合の美」の平和思想が必要であり重要だと思います。柳は、同質美のなかでは、人は心安らかになることが出来ない、という確信を持っていました。「複合の美」の平和を実現させるために、柳は、一方では強者の優越意識を戒め、他方、弱者に対しても、強者の模倣に終始することなくプライドを持たねばならないと説いていました。

現在の世界にはグローバル化への強い力が働いており、そこから生じる格差が、世界各地で暴力行使を招いています。大国はそのような動きを武力で弾圧し、暴力の連鎖がさらに強まっています。このような状況においてこそ、「複合の美」の平和思想が求められなければならないと思います。世界が一色になって、果たして人は幸せだろうか、という柳の問いを改めて振り返ってみる必要があります。

講演風景写真2
講演風景写真2
強者の力によって世界が一色になることに抗い、大小の草花が共生する自然界のような「複合の美」の世界を、非軍事的方法によって作り上げていくこと――これこそ柳の生涯にわたる問題意識の核心をなしていたものでした。

こうとらえるならば、柳は何よりも先ず、「複合の美」の平和を説き実践した思想家として記憶されるべきではないでしょうか。そして我孫子は、そのような「複合の美」の平和思想が誕生した場所だったということ――このこともしっかり心にとめておきたいと思います。