197.「志賀直哉」―大正六年を中心に―
第82回面白白樺倶楽部開催報告

講師

生井 知子 氏 (同志社女子大学教授)

期日

2008年8月8日(金)17時より

場所

当館コミュニティールーム

講師写真
講師写真
この度の講師、生井知子先生は地元我孫子市の出身で小学校は我孫子第一小学校を卒業されました。当時は手賀沼も見え、また近くの楚人冠公園で遊んだ思い出もあり、子ども時代を振り返り、まさか志賀直哉を研究し、ここでお話をするとは思わなかったとのことです。

今回は「 志賀直哉―大正六年を中心に―」について、若き日の志賀の行動や作品について、お話しをおうかがいしました。講演は、志賀直哉の生い立ち、明治十六年二月二十日宮城県石巻に、父志賀直温三十一歳、母銀二十一歳の次男として生まれたことや、二歳の時父が第一銀行石巻支店を辞め、東京の祖父母の住む旧相馬家の藩邸内に引っ越し同居することなどにふれ、核心へと進められました。

志賀直哉が、大正三年、四年、五年をどのような生活をしたかはあまり分かっておらず、その期間は、作品を発表していない、原稿も書いていない、日記も残っておりません。大正三年以降執筆活動を休止したときで、精神状態もあまり良くありませんでした。志賀直哉は父との葛藤のなかで、自分はあのお父さんの子ではないのではという、父へのコンプレックス、拒否、否定や自分はぱっとしない駄目人間なのかという劣等感におそわれ、ノイローゼ気味になります。ところが、大正六年になって少しずつ書けるようになり、長年仲が悪かった直哉と父直温は和解し、父との葛藤を作品として書きました。大正六年、これは志賀直哉にとって大きな節目の年でした。

以下若き日の志賀直哉が抱えていた問題、時代背景、青年期の志賀直哉について下記のレジメに従ってお話されました。

1 若き日の志賀直哉が抱えていた問題

  • 家族関係の歪み
  • 父との不和の性質
    例(足尾銅山鉱毒事件、大学の服装、総武鉄道の政府買い上げ、関西旅行、尾道行き)
  • 父への求愛と父の拒否
  • 被害妄想と誇大妄想
    飛行機が飛ぶのを見ての興奮
    アナトール・フランス「エピキュラスの園」の感想
    志賀直哉が抱いた空想
  • 人類を滅亡の運命から救うためには、出来る限り進歩しなければならず、自分たち男は、人類の意志によって仕事へと追われている。
  • 自分も滅亡の運命から人類を救う天才の一人になろう。

2 時代背景

明治四十五年(大正元年)
一月
「祖母の為に」を発表。
九月
「クローディアスの日記」を発表。
十月
自活すべく志賀家を出る。
十一月
尾道に住み、所謂「時任謙作」と呼ばれる長編小説(「暗夜行路」の前身)を執筆。
大正二年
六月
「坂井と女」(「佐々木の場合」の草稿)を執筆。
八月十五日
山の手線事故に遭う。
九月
「范の犯罪」を執筆。
十月
城崎に滞在。
場内風景1
場内風景1
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大正三年
四月
「児を盗む話」を発表。この月以後大正六年まで作品を発表せず。
七月
長編小説の執筆を、人生観の変化を理由に断念。
月末大山に滞在。
十月十八日
草稿「死ね 々 々 」を執筆。
十二月
勘解由小路康子と結婚。
大正四年
九月
我孫子に転居
大正五年
六月
長女・慧子が誕生。七月死亡。
場内風景2
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大正六年
初め
園池公致としていた回覧雑誌に、父との不和を書いた自伝的長編についで、「佐々木の場合」と前後して「城の崎にて」を掲載。
五月
「城の崎にて」を発表。
六月
「佐々木の場合」を発表。
七月
「小品五つ」を発表。
八月三十日
父と和解。
十月
「和解」を発表。

3 まとめとして下記の講演要旨をいただきましたので、掲載させていただきます。

青年期の志賀直哉は、父との軋轢を、父及びその代理人による呪い、不当な迫害といった一種の被害妄想の形で表現する場合が多かった。

場内風景3
場内風景3
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従来、直哉が調和的心境に到達したと言われてきた大正六年に発表された作品、『城の崎にて』『佐々木の場合』「家守」も、実は悟りとは程遠く、人間には《其気が全くないのに》=《偶然》、主人公の意志に反するような《妙な》事が起こってしまい、主人公が《厭な気》に襲われ、《呪》われている事を実感する、という作品だった。

だが、『城の崎にて』『佐々木の場合』「家守」における呪いの描き方には、同じく呪いを描いた初期作品とは違う面も生じて来ている。『祖母の為に』や『クローディアスの日記』などの初期作品では、外部にはっきりとした悪しき迫害者がいて主人公を呪っており、それを打ち倒しさえすれば問題はすべて解決していたが、大正六年の作品においては、攻撃性が薄まり、自分の罪や責任を実感するものに変化してきている。これは主として『智慧と運命』の影響により、直哉が、自分の中の被害妄想的傾向をなるべく抑えようと努力した結果であり、実生活上でも、この大正六年夏、直哉は、智慧を働かせて、父との〝和解〟を獲得できた。だが、それは本質的には手打ちに過ぎなかったので、父との葛藤のより完全な乗り越え方へ向かっての模索は、それ以後も長く続けられねばならなかったのである。