199.新しき村90年を語る
第83回面白白樺倶楽部開催報告

講師

石川 清明 氏(財団法人 新しき村理事長)

期日

2008年9月12日(金)17時より

場所

当館コミュニティールーム

講師写真
講師写真

石川清明先生には、白樺文学館開館3周年記念「励ましの手紙」展 特別企画2003(H15年11月23日)で「武者小路実篤先生と私」と題し御講演をいただきました。

今回は、新しき村90周年にあたり、90年を振り返り村の近況や思い出を語ってもらいました。石川先生は、武者小路実篤先生が同士を集めて、我孫子を発った新しき村日向への旅立ちの地、ここ我孫子は、白樺派の主だった人達との特別に縁の深い土地であると感慨をこめて述べられました。

大正七年、武者小路実篤の提唱で始められた新しき村は、宮崎県で始められましたが、ダム工事による水田の水没から、昭和十四年埼玉県に新たな土地を求めて第二の村つくりを行い、現在に至っております。この90年を振り返り、日向の村(宮崎県児湯郡木城町石河内)、埼玉の村(埼玉県入間郡毛呂山町)、を語り人類の将来を語り継いでゆきたく思います。とのコメントより講演が始められました。以下は講演の概要であります。

1.提唱から土地探し

武者先生が大正七年に新しき村の運動を始めましたのが、ここ我孫子に住んでいたころ3月頃だったと思います。先生の自伝小説、というような感じの『ある男』と『一人の男』の2冊の本が有りますが『ある男』には、自分が20歳頃からこんな世界があったらいいな、という憧れの世界を描いていました。それを発表したいと思った、と云うようなことが書かれています。それを大阪毎日新聞に発表したところ、大きな反響があり、人間が本気になれば、この世界は出来るはずである、と云う様な気持になって始められたのが新しき村です。

そんなことから、たしかその年の9月21日だったと思いますが、我孫子の土地を離れまして遊説の旅に出ます。そして途中で同士を集めながら始まったのが新しき村運動の始まりでした。今でこそ、日向まで行くのはたいしたことはありませんが、当時は列車の堅い椅子で長時間揺られ、あっちこっちで講演会をしながら新しき村を説いてあるいたと記録に残っております。講演会では野次や怒号があったが、それをしずめる聴衆に励まされたと記されています。

最終的に行き着いたのは、宮崎県児湯郡木城町石河内と云う土地でした。現在では宮崎空港から一時間半くらいで着きますが、昔は鹿児島本線の高鍋と云うところからまず3時間くらいは山道を歩かなければなりませんでした。しかし、山の上から見ると村は物凄く綺麗でした。5千人位の村落の綺麗なところで、周りは鹿遊(かなすみ)山系の山並みで、それぞれ1,000mを越す高さで村の周辺三方を小丸川で囲まれた土地柄でした。

日向あたらしき村全景 創立3年目頃 『この道を歩く』 武者小路実篤著 日向あたらしき村全景 創立3年目頃 『この道を歩く』 武者小路実篤著

2.日向の村時代

初めにスタートしたのは、大人18人、子供2人で住まいは隣の部落からの通いでした。記述には、土地代金は704円であり、翌年先生は我孫子の家を5,390円で売ったとのことでした。

新しき村の会員、第一種会員(実働会員)は多いときに40人、第二種会員(側面援助会員)は村外会員と呼ばれておりますが、当時多い時で700~800人いたのではと云われております。 やがて、日向の新しき村の、上等だった水田がダム工事により買い上げになり、昭和14年に土地を離れることになりますが、日向の村には現在2世帯(夫婦2組)が暮らしています。

当時、先生は午前中執筆をやって、村の経済を支え、午後は百姓仕事をやる状況でした。村で書かれた主な著書は『幸福者』『第三の隠者の運命』『友情』、脚本では『人間万歳』『桃源にて』、伝記では『耶蘇』などです。

先生は足掛け8年村内に滞在しておりました。ここの新しき村で長女が生まれ、日向を出るということになりますが、文筆活動に専念するのが村のためになる、と云うのが大きなきっかけだと思います。また娘さんの教育のことも有ったと思われます。

今日 宮崎県も木城町も力を入れて、途中のトンネル・道路・橋を友情トンネル、文学ロード、童心橋などと命名して整備し、高鍋から30~40分そこそこで行かれるようになりました。また、80周年記念行事として1998年には先生の旧居が記念館として復元され残されました。

3.埼玉の村

講師2畳ほどのバンガローの生活(当時23歳)『石川清明感想集』著 講師2畳ほどのバンガローの生活
(当時23歳)
『石川清明感想集』著
昭和14年、九州の日向から来た時は2家族6人ずつの世帯でした。「野井」さん「川島」さん、この2人の先輩はともに体を悪くして数年後に村を出ることになりましたが、戦争が厳しさを増しやがて終戦を迎えました。そうしたなか、山林を開墾したものの、やせた土壌ではなかなか作物の実る畑にならなかったのが実態でありました。そのあと私どもが受け継いでやってきました。

先生は終戦を境に、秋田の疎開先稲住温泉から戻ってきて、昭和20年の12月久しぶりに新しき村の講演を行いました。私が初めて講演会に出たのは21年12月、18歳の時であり、その時から村の会員になり今日まで続いています。当時木曜会は毎週土曜日に行われ、毎月第1日曜日は三鷹の先生宅で例会がありました。その後昭和26年に村内会員として埼玉の村に入りました。私が居た時の村内は、少ない時で8人、多い時でも12人でした。

昭和14年埼玉県入間郡毛呂山町に第二の村、埼玉の村がつくられ、以来69年、現在に至っております。私が埼玉の新しき村に入ったのは昭和20年代の後半でありましたが、農作業は手作業が中心であり、冬の「開墾」では寒さとあかギレなどの手入れが欠かせぬものでした。今自分で振り返ってみると、いい時にいたという思いがします。

新しき村は昭和22年 財団法人になります。当時不在地主運動があり、土地の名義が先生の名前や提供者の名前ですと、その人が亡くなると、相続問題がおきるのでその問題をさけるために、名義を財団法人にした経過があり現在に至っております。

(村の仕事・状況)
村では、田畑、搾乳、養鶏、梅、椎茸栽培を中心行っています。
養鶏は、一時5万5千羽ほどになったことがあるが、今は数千羽となりました。田は、今年2町5反 無農薬にて2人でやっていますが、私の時は7反程でした。村が経営的にバランスがとれるようになってきたのは、昭和30年代半ば過ぎ位からでした。個人への支払いは昔800円で、今は月額35,000円を渡しています。ボーナスは盆暮れに大体50,000円前後個人に渡しています。高齢の方、病気で働けなくなった方へも35,000円を渡しています。年金は村へ入れてもらうが、年金の掛け金は村が払っています。介護保険などの個人名義の支払いはすべて村がやります。現在村の貯えは、約2億円あり高齢になっても村を追い出されることはなく、お互い皆で支えあっている。村は皆が労働者であり経営者であり家賃、電気、ガス、水道はすべて村持ちです。

4.現在の社会と新しき村

会場風景写真
会場風景写真
クリックで拡大

現在の社会は、随分多様化した時代になったが、根本的には昔と変わっていないと思う。これだけ生活が便利になったから、人間が変わってしまったのでしょうか。いまニートと云う若者がいますが、どのように生きてよいのか判らなくなった人たちがいて当然と思います。自分を振り返ってみると、戦争を境にして明日から何をしたらいいのか、わからない時代がありました。敗戦以来どのようにして生きるのが本当なのか、何をやれば神意に叶うのかそれを求めて、読書に取り組みました。戦中の同じ教育者の教育を受ける気にならず、読書を続け武者小路先生に触れ、トルストイに触れて、新しきむらの生活につながってきましたが、今の若い人達が迷っていることは、当然のことと思います。若者はもっと真剣に取り組んでもらいたいと思います。そこには、必ず行き着き先があると思います。今の世の中、その場限りのテレビや漫画と云うような目先のものだけで暮しを続けると、本当のものが見つからなくなるような感じがします。

おわりに

石川先生は、新しき村のあり方について、こう云っておられました。

  • 命令系統が本当にない、いいと思う意見に動いていこうではないか、反対意見でも成程と云う意見は尊重していく。
  • 大事なことは理想的社会をつくるには、自分が理想的人間になろうと努力しなくてはいけない。それは難しいけれど、まず身近なことから一生懸命やる気持が新しき村つくりの根本と思います。
  • 新しき村は、なにも難しいことをやろうとしているのではなく、一生懸命人間らしい生き方をし、自分がまずやるのだ、そして2人が3人に4人になり100人200人になると云うのが新しき村のあり方だと思います。

以上の言葉で講演を終えられました。