200.「我孫子と陶芸(3)」
第84回面白白樺倶楽部開催報告

講師

岩村 守 氏(陶芸家)

期日

2008年10月10日(金)17時より

場所

当館コミュニティールーム

岩村守 氏
講師 岩村守 氏

岩村守先生には、前回の講演「―やきものの話に―」に引き続き、地元我孫子で活躍した陶芸家バーナード・リーチ、河村蜻山、岩村福之の作品や窯などについてのご講演をいただきました。またその概要について、ご寄稿頂きましたので、ここに主な作品例とともに掲載させていただきました。    

1914年(大正3年)に、柳宗悦が我孫子に居を移し、1917年(大正6年)に、リーチが柳邸内に窯を築いたことは、近代陶芸の視点からも、重要な1ページの開幕であった。

1.我孫子にやきもの

柳が彼の造語である“民芸”の思想のデッサンをはじめ、その実践をスタートさせた地として、我孫子は大切な地点となる。リーチにとっても陶芸家として本格的な第一歩であった。そのリーチの築窯20年後の1938年(昭和13年)に、同じ地・同じ屋敷に“河村蜻山”が京都から窯を移し作陶に入る。敗戦をはさみ、松材の購入困難や生活物資の欠乏の状況を経て、1954年(昭和29年)鎌倉に窯を移すまで続く。

会場風景
会場風景
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さて1940年(昭和15年)開窯2年目の蜻山工房に岩村福之が助手として参加、我孫子に家族一同転居する。その後福之は、鎌倉の蜻山にも協力を続けた後、1962年(昭和37年)、住居の我孫子に窯を築き、質は継承しながら、独自の表現を立てる。没後も、窯は継承されている。

粘土の出ない(伝統の陶業地でない)我孫子の地ながら、柳の高い認識と活動から我が国の近代陶芸のポイントになる舞台となった。柳が我孫子に住むことで、リーチを主役に我孫子と陶芸のドラマが生まれたといえる。後に続く蜻山、福之という流れとあわせて、我孫子の大きい遺産になった。

2.リーチと我孫子

柳の見識と友情によって、リーチは我孫子で本格的な陶芸の制作に入る。リーチは、西欧の近代美術の眼で、我が国のやきものをうちから捉える。さらに日本を超え、古き中国陶の骨格と気品にまで到達し、寡黙な作品の雰囲気のなかに、自分の造形を築いた。日本の近代陶芸の先駆的な作家として重要である。

その間母国イギリスの古い民陶スリップウエアを掘り起こして造形化。また我が国の民窯の山陰の布志名(ふじな)焼や大分の小鹿田(おんた)焼などで、実地に指導、ピッチャー(水差し)やマグ、エッグ・ベーカー(卵焼き)のような洋の生活食器を伝えた。それらは和陶として違和感なく育ち、現在も姿を保って生き続けている。

さて、リーチの我孫子の窯が気になる。残された当時の写真からの判断は難しいのだが、江戸名所の錦絵、遠景に筑波を見て、今戸の窯が煙を上げている図をみて、6世乾山が住んでいた今戸焼の“土器窯こそリーチ窯の原形だと気づく。その外形は、まさに同じであった。

我孫子のリーチの窯 我孫子のリーチの窯
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“土器窯”は、主流の“瓦窯”の弟分で焚口の構造が違う。本来瓦や素焼品を焼く素焼の窯だから高い温度(本焼1250℃前後)は無理である。リーチ窯の母型は想定できたが、その内部構造の検討はこれからである。

いずれにしても、あの時代に陶業地を離れて個人で窯を持ち、作陶をすることは、至難のことだったと、改めてリーチの偉さを知る。だからこそ、後のセント・アイブスでの作陶も成立したのだと。

以上、リーチについて“リーチの視点”と我孫子の窯の2点に内容を絞った。

3.河村蜻山

河村蜻山河村蜻山
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蜻山は、京焼の主流のひとつ“粟田焼”から出発する。京都にあって近代陶芸の成立の中で、京焼の陶工から陶芸家に脱皮した先駆者の1人であった。すでに、20歳のころに神坂雪佳(かみさかせっか)主宰の“佳都美(かつみ)会”のメンバーとして、いわゆる琳派ルネサンスの活動を支え、雪佳構想のやきものを制作、協力した。先年、京都国立近代美術館などで、続けて雪佳展が開催され、そこで初めて眼にした蜻山の初々しい作品に感動した。

その作品群は、粟田焼のやさしさと青年蜻山のさわやかな感性が生命感を伝える数々である。その後、文展・帝展の前進の農(商務省)展の第1回展から連続入選を続け、陶芸研究の団体を結成しリーダーとして活発な発表活動を進めていく。(蜻山 1866~1942 京都生。日本画を学び工芸意匠を通して工芸界の指導。光悦・宗達の琳派の再興を望んだ。)

1927年(昭和2年)帝展に始めて第4科美術工芸部門が誕生し、陶芸の初入選者15名中の貴重な1人となる。37歳。3年後には、審査員に抜擢され、官展“帝展”の雄として大きい地位を獲得していく。その流れに対して早くも柳は、“民芸”運動からの批判の対象として、昭和5年の帝展4科の展評を新聞紙上に、具体的に六兵衛・蜻山など作家名を挙げながら、厳しい批評を浴びせている(なお、この文は柳宗悦全集8巻に所蔵)。柳の批評はさておき、蜻山の力量に対する当時の評価は高く、神技と人は記事にしているほどだ。その長年にわたる多彩な作域の中で、特に“染付”(そめつけ)は素地の色と肌そしてパターンと紺色が筆のさばきに見事に合って、気品すら漂う。そこに中国陶からの学びの深さを感じる。

花瓶 染付柘榴文 我孫子市役所
花瓶 染付柘榴文 我孫子市役所
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花瓶 赤絵禽文
花瓶 赤絵禽文
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次に“三島手”である。地色の深色と肌に“さび”があり、それになじむ白化粧、加えて呉須・鉄の筆の表情が深い。この2つの作域のみならず、色絵・赤絵・赤地金彩にも非凡で、また轆轤の技も秀いでていて、磁器・陶器にわたって、今なお他の追従を許さないものを感じる。

4.岩村福之

岩村福之 1976.9岩村福之 1976.9
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我孫子の蜻山工房に参じるのが1940年(昭和15年)、37歳だった。振り返って、1925年(大正14年)第13回農(商務省工芸)展に22歳で入選してから22回展までほぼ連続入選。その他単発の公募展などに入選。

このように、陶芸作家の道を歩み、日中戦争で応召し帰国後も、活動を続けていた。我孫子においては、蜻山工房の制作に関わる作業に従事しながらも、戦前は徴用にとられ兵器の工場に、戦中は単発の大きい公募展に、戦後はすぐに蜻山工房に復帰し仕事に戻る。自分の制作も復活し富本の国画展・新匠会・板谷の東陶会などにも出品入選を続けていた。

当日展示された岩村福之の作品
当日展示された岩村福之の作品
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1962年(昭和37年)、20年住んだ我孫子に登り窯を築き、今までの蓄積を爆発させる。その作品群は、堪能な轆轤を生かし、様々な種類に、多様な色釉、そしてどれも愛すべき小品が多く、どんな作品にも精魂を傾け、特に“焼〆銀彩”に独自の境地を開いた。パターンには、かわせみ・うさぎ・河豚などが多く登場し、後年、色絵・赤絵・銀彩など上絵を楽しんだ。なお“錦窯(きんがま・上絵の窯)”は終生、薪窯でとおし、電気窯は使わなかった。

色絵八方皿かわせみ文
色絵八方皿かわせみ文
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赤地銀彩ざくろ文宝瓶
赤地銀彩ざくろ文宝瓶
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以上

注1)なお、リーチの指導した布志名(ふじな)焼・小鹿田(おんた)焼の製品、蜻山・福之の小品を展示した。
注2)この“まとめ”は、当日配布したプリントとタイトルや話の立て方が異なるが、内容により忠実に、また理解しやすいように工夫しこの文面にした。