202.我孫子第四小学校4年生の総合的な学習
「我孫子探検」

市内の各小学校では「将来にわたってたくましく生きる力」を身につけるため、自ら課題をもって活動する「総合的な学習」が行われています。

熱心にバーナード・リーチの説明を聞く子どもたち
熱心にバーナード・リーチの
説明を聞く子どもたち
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我孫子第四小学校では、4年生で我孫子の文化や歴史・名所などを調べ、子どもたち自らが行き先やコースをきめて見学する学習活動が実施されました。

白樺文学館では、先日11月26日我孫子第四小学校4年生6名と保護者2名の校外学習の訪問を受けました。事前にいただいた~しつ問したいこと~に基づき、当日簡単な説明をいたしましたが、児童の皆さんの熱意あふれる質問には案内の文学館副館長もずいぶん苦労をされていたようです。

知りたいことの解決に向け笑顔の子どもたち
知りたいことの解決に向け
笑顔の子どもたち
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なお復習を兼ねて補足説明を掲載いたしました。 以下は少し難しい部分もありますが、今後の学習に役立てていただければ幸いです。また、疑問の点がありましたら直接白樺文学館へご照会ください。


~しつ問したいこと~

Q1
我孫子を去った後どこへうつり住んだか
A1
  • 柳 宗悦
    東京へ 東京の自宅で一人の生活していたお母さんと一緒に暮らすためと子どもの教育のためなど。
  • 志賀直哉
    京都へ 小説(暗夜行路)がうまく書けず気分転換の為か?
  • 武者小路実篤
    宮崎県の田舎へ "新しき村"の建設のため。
  • バーナード・リーチ(以下リーチと云う)
    東京の支援者の家で半年ほど作陶した後イギリスに帰って窯場を作って作陶活動をした。
Q2
生活はどうだったのか
A2
リーチ以外の3人は明治時代の政府の高官、事業家、軍人の息子たちで親の資産で十分生活ができる人たちだった。
リーチは、エッチングを教えたり、また資産家からの援助も受けていた。
Q3
一人一人の活躍
A3
  • 柳 宗悦
    自分の勉強(宗教哲学、イギリスの思想家の研究)、雑誌「白樺」の編集と投稿、また民芸運動のため全国を巡り、朝鮮(現在の韓国、北朝鮮)に何度も行った。奥さん(柳 兼子)は歌手活動などで夫の支援をした。
  • 志賀直哉
    小説を書いて「白樺」や商業雑誌などに発表した。おもな小説 暗夜行路(前編)、城崎にて、和解、小僧の神様、焚火など
  • 武者小路実篤
    小説(或る男、日本武尊等)を書いて「白樺」等に発表した。また宮崎県に作った"新しき村"の発会式をした。
  • リーチ
    柳宗悦の敷地内に焼き物の窯を築き約2年の間に11回窯に火を入れて焼き物を焼いたが、窯から出火して集めた資料などを焼失した。
Q4
我孫子は何年いたか
A4
  • 柳 宗悦
    大正3年(1914)9月~大正10年(1921)3月まで6年6ヶ月
  • 志賀直哉
    大正4年(1915)9月~大正12年(1923)3月まで7年6ヶ月
  • 武者小路実篤
    大正5年(1916)12月~大正7年(1918)9月まで1年9ヶ月
  • リーチ
    大正5年(1916)12月~大正8年(1919)5月
    (註)リーチは、作陶のため平日は我孫子の柳の家に泊まり、週末は東京に帰り家族と過ごした。
Q5
なぜ我孫子には小説家が集まったか
A5
柳宗悦は、母親の別荘だったところで新婚早々の夫婦として生活を始めた。手賀沼の美しさ、(現在の倍くらいの広さがあった)富士を眺める雄大な景色、住んでいる人も少なく落ち着いて勉強ができる。などの理由が考えられる。 柳宗悦のすすめにより、志賀直哉が、志賀直哉の勧めにより武者小路実篤が来た。リーチも柳宗悦のすすめで屋敷内に、工房と窯を築き作陶した。 また、志賀直哉を慕って、滝井孝作、中勘助が住んだ。 白樺派の人たちとは別に、深田久弥、杉村楚人冠、河村蜻山なども一時期住んでいた。
Q6
バーナード・リーチはどんな人と仲が良かったか
A6
リーチはイギリスの美術学校でエッチング(銅板を腐蝕(ふしょく)させて絵を描き印刷する)を習い東洋の日本に興味を持っていた。たまたまイギリスに留学中の高村光太郎(彫刻家)と知り合い光太郎の父光雲への紹介状を持って日本へ来た。そして東京でエッチング教室を開いた。その教室に、白樺派の柳、志賀などが来て知り合った。日本での交友関係を見るといずれも芸術家ばかりなのでこういう人たち、また、日本各地の窯焼きの人たちに指導をしたり、一緒になって仲良く作陶をした。
Q7
一人一人(みんな)の作品の個性
A7
白樺派は、学習院(学習院大学の前身)という当時の上流社会の子弟しか入学できなかった学校の仲間たちの一部が集まって雑誌「白樺」をつくり、個人の尊重、理想主義などお互いの考えを尊重しあいながらそれぞれの生き方を重ね、小説、評論などで発表した。
Q8
小説はどれくらい書いていたのか
A8
雑誌「白樺」は明治43年(1910)4月号から大正12年(1923)8月号まで、全160冊の雑誌をだした。武者小路実篤は、ほとんど毎号書いていた。他の作家としては、有島武郎、木下利玄、里見弴、郡虎彦らがいて、画家としては梅原龍三郎、中川一政なども仲間にいた。(註)雑誌「白樺」は全巻揃って当文学館にあります。
Q9
バーナードは子供の頃どんな子だったか
A9
リーチは明治20年(1887)香港に生まれたが、母親に早く死なれ日本にいた母方の祖父母に4歳まで育てられた。その後香港に戻り10歳の時イギリスの学校に単身入学、ここでいじめにあい苦労したらしい。しかし、画家になる事をこころざし美術学校に入りエッチングを学んだ。 一方自分の考えとして、東洋の悟りと西洋の信仰、東西の考え方の相違をなんとか近づけたいと東西の融合を生涯のテーマとして陶芸を通してその考えを発表した。
Q10
バーナードはなぜ陶芸家になったか
A10
ラフカディオ・ハーン(ギリシャ人の小説家、日本名小泉八雲)の著作を読んで東洋の思想(考え)に強い興味を待ち、日本へ船で来ることになった。日本にくる船で知り合った富本憲吉(陶芸家)とともに西洋には無い焼き物(楽焼)に魅せられ、第六代尾形乾山に入門し陶芸家として出発した。一時陶芸をあきらめたが柳宗悦の強い勧めで、我孫子に窯を築き本格的な陶芸家として再出発した。ここで焼いた野兎のお皿の焼き物はリーチの最高傑作のひとつと云われている。
Q11
みんな何才まで生きたか
A11
  • 柳 宗悦 72歳
  • 志賀直哉 88歳
  • 武者小路実篤 91歳
  • リーチ 92歳
  • 柳 兼子 92歳
  • 滝井孝作 90歳
  • 中 勘助 80歳
Q12
我孫子時代の作品
A12
A3のとおり
Q13
代表的な作品
A13
  • 柳 宗悦
    思想家としての著述は山ほどあるが、柳は多くの芸術家を見出し育てたこと。民芸運動を通して本当の美は、民衆(一般の人たち)が作り、日常生活に使っている道具類の中にあると、日本中の窯場をリーチと回って、焼き物について指導し、また、昔の民家で使っている日常の生活道具類の美しさを発見して歩いた。陶芸家浜田庄司は、「柳はものを作らなかったがものを作る人を作った」と言っていた。
  • 志賀直哉
    小説  暗夜行路 城崎にて 小僧の神様 など
  • 武者小路実篤
    小説  友情 幸福者 人間万歳 その他数多くの書と絵 「仲良きことは美しき哉」など
Q14
どんな人たちだったか
A14
上記の回答から、考えてみてください

以上


~白樺文学館のみなさんへ~