205.「民藝と私~柳宗悦と淺川兄弟」
白樺文学館開館八周年記念講演会(第85回面白白樺倶楽部)報告

講師

浜 美枝氏(女優・農業ジャーナリスト)

期日

2009年1月24日(土)13時30分より

場所

JR我孫子駅南口けやきプラザ ふれあいホール

講師 浜 美枝 氏
講師 浜 美枝 氏

白樺文学館の開館八周年を記念し、講師浜美枝さんをお迎えして講演会を行いました。講演に先立ち当館、佐野力館長代理渡辺貞夫副館長及び我孫子市長星野順一郎氏よりご挨拶をいただきました。

我孫子市長 星野順一郎
我孫子市長 星野順一郎
佐野力館長代理 渡辺貞夫副館長
佐野力館長代理 渡辺貞夫副館長

浜美枝さんは、40年近く全国各地を旅行されておりますが、ここ我孫子での下車は初めてのようでした。「箱根に住んでいますが、箱根から我孫子は本当に近いですね、こちらに来るのを楽しみにしていました。」とのお言葉から講演が始まりました。以下「民藝と私」の講演概要です。

○旅の中から民芸へ

浜さんは、全国各地を旅してきましたが、特に農村が多かったそうです。そして、「私の旅は不思議となぜか民芸のふるさとばかりで、民芸を創る人、創造する人、民芸を愛する人、民芸を研究する人、全国各地でお会いする方々から教えられ続けられてきた私のひとり旅です。」と云われ、そしてそんな柳宗悦の思想というものをこの旅から感じ、あの時代多くの青年たちを奮い立たせたということが、よく々分かったとのことでした。

そして、「用の美、日々の暮らしの中で用いられる物の中に真の美がある。手仕事の美を愛することで、自分の心情も誠実で豊かなものになってくる。」と教えて下さった先達の方々は、本当に残念ですがすでに通り過ぎた後だったのです。この民芸というものが、教えてくれるのは、私は今の日本人に、世界の人々に、いいえ地球にとっても必要なことだと思います。なのに、民芸や『白樺』云い出しっぺの方々は、もういないのに、ぶつぶつ云い続けながらの旅を続ける私です。また、心から柳宗悦先生を師と仰いだ、小林多津衛先生との出会いは28年前位になりますが、小林先生は大正6年に柳先生の講義を始めて聞いたそうです。非常に感銘を受けて、それ以来の関わりを続けていた方で、先生はあるとき私にこうお話しになられました。「仕事の中から真実をつかめる人間を育てる教育、そのためには、民芸はもう一度見直されるべきである。」浜さん、「今の人たちは、一人ひとりが個性的ですか?教育が行き届き情報が溢れている中でなお皆個性的ですか?皆の関心は関心の的はなんですか?皆本当に自由ですか?手仕事の豊かさ人間の作った物への敬愛、人間への賛美、つまり民芸を教えるところは、これなんです。」と云われました。

明治43年生まれの雑誌『白樺』。そこから生まれた「新しき村」の理想、大正14年に生まれた民芸、戦後直ちにその民芸運動へと移っていくわけです。私は本当に単純に旅の中からこの白樺派の方々にご縁のある方、そして民芸と移っていきました。

○『白樺』の人たちと『民芸』

私が本の世界できり知らなかった柳宗悦先生と、作品で知ることのできるバーナード・リーチ、河井寛次郎、浜田庄司さんらとの数々の交流を重ね、思い出を持つ先程の小林さんが、「白樺の人たちの友情、四人の民芸の人たちの友情は、傍で見ていてまさにこの世の楽園だと思いました。」と云っていました。そして「白樺は喜びを持つ生活を、民芸は美を使う暮らしの喜びを教えてくれます。先輩達の出会いが、私に生涯の喜びを残してくれました。」ちょっと嫉妬しませんか、あの時代に生まれていたら、本当に私はもう嫉妬していたにちがいありません。白樺の人々の自分を生かす生き方、そして美を見出し賛嘆し、歓喜する生き方のいく末に、民芸が見出されたのだと私はそのように思います。

それまでに、誰にも気付かれずにそこにあった日用品の美を見出した柳宗悦、私達に大きな価値を残してくれたものと私は思います。

生活の基本なのかもしれない、誠実で重厚で使いやすくてそして心落ち着く素朴で美しいもの、誠実な人と暮らすことの豊かさと幸福感、民芸というのは日常で使ってこその「用の美」それが美しいものであり、真髄であるのではないかと思います。

○柳先生の本との出会い

私は東京の下町で生まれましたが、戦災で焼け出され、川崎で子供時代を過ごしました。全てを失った家庭で育ちましたから、本を買うこともなかなか出来なかったけれど、とても本が好きでした。街の図書館や学校の図書室で借りて読んでいました。あれは14歳の春の日に、先生の本に出会いました。ついに一度もお会いすることの叶わなかった柳宗悦という方が、思想家で哲学者であると知ったのは後の事です。中学生にとっては難しく、ただパラパラめくっていました。本の題名がはっきりとしませんが、ただフレーズとして、「物を創る人に美しいものを創らせる、使う人に美しいものを使わせる、この世を美の国にしよう」とこう云う言葉が少女の私に、なんだか良く分からないけれど心に響きました。私はこの人を師と仰いで人生を歩んでいきたい。丁度中学生で多感でもありましたからこの人についていきたいと一瞬にして心に決めました。その思いが65歳の今日になるまでずーっと続いています。恐ろしい恋心なのかも知れません。柳宗悦の言葉で「この世を美しい国にしよう」という呼びかけが、いかに大きな意義を持っているのか、ということを50年近くなってようやく少し分かってきたような気がしました。

○骨董との出会いと民芸の原点

私と骨董の出会いは、京都でした。1963年(昭和38年)の苔の美しい季節、17歳でした。15歳で女優になってなんとなく自分の居心地が悪く、デビュー2年目の頃でした。土門拳さん、つい先日も山形県の酒田に行って来ましたが、土門拳先生とは15歳の時に知りました。100円のざら紙で印刷された写真集『筑豊のこどもたち』が有りまして、出版されたのが1960年です。筑豊の閉山に沈む筑豊の子どもたちを撮った写真集で本当に感動しました。表紙になっている、るみえちゃんの美しい笑顔と深い悲しみ、あの時代の筑豊の閉山ですから土門さんがどのような思いで、その子どもたちを撮り続けたのかと思うと何か胸が熱くなるものが有りました。先生にお会いしたいと、ずーっと15歳から思い続けていました。たまたま、雑誌『婦人公論』の表紙で拳先生が撮って下さるチャンスがあり、京都に行きました。表紙の写真一枚で4日間を掛けるそれくらいのゆったりした時間が流れておりました。今日は光が強すぎる太陽があり過ぎるということで、中止になりましたので道具屋さんに行きました。その道すがら先生が足を止めて、「あのね、物には本物とそうでないもの、その二つきりしか無い。これから本物を見に行くよ。しっかり本物を見てごらん。いつも本物を見ていると偽物が分かる。偽物ばかり見ていると本物を見落としてしまう。しっかり自分の目で本物を見てごらん。」と云って下さいました。

先生は、まだたぶん50代だと思いました。そのあと『室生寺』とか『古寺巡礼』とかの写真集を出版し、その後、脳梗塞で倒れられ車椅子に乗っても「女人高野室生寺」などを撮影し続けられました。そこの、骨董店でよく分からないまま出会ったのが「うずくまる」と云う壺なんですね。手のひらにすっぽり載るような、農民が種壺で使っていたであろうと云う室町時代の古信楽焼品に、思わず一目惚れをしてしまいました。

「あまりにも美しかった」「欲しくてたまらない」「これを私に譲って下さい」。もちろん断られました。土門先生も骨董屋の方も呆れて、「そんなとんでもない。」でも私はどうしてもと思いまして、当時勤めていた東宝のお給料一年分を借りて、その信楽焼を求めてしまいました。それが今、私が居るリビングに有ります。この壺に、必ず年に一回寒の頃、庭に咲く寒椿を生けるようにしています。(2009.2 .6浜美枝ダイアリー『あなたに逢いたくて』から)

「うずくまる」浜庭寒椿の生花…(写真)
「うずくまる」浜庭寒椿の生花

この信楽は、私の原点でもございます。それが民芸にと導いてくれました。「うずくまる」にもし出会わなければ、奥深い世界に触れることは出来ませんでした。

柳さんの民芸の追及の背景を、昨日も考えてみました。それは当時の粗悪な機械製品や鑑賞の対象としてのみ創られる趣味的な美術品、工芸の現状に対する強い反発の念があったのではないかと、私はそのように思っております。

幼い私はひたすら「用の美」、無名の人が創る美という考えかたに共鳴し、次第にこの「美しい暮らしと」いう言葉に憧れを抱くようになりました。

それが、たまたま申し上げた「うずくまる」であり、その土台になったのが「用の美」だったと思います。

ともかく「民芸の原点は日々の暮らしの中で丁寧に使いこなしてこそ、物と良い関係を築くことが出来る。」というのが私の信念であります。決して高価なものである必要はない。一人ひとりが、素敵と思えたものであればいいのではないでしょうか。大事だから箱の中に入れていたり、使わないでいたら、それは柳宗悦達の民芸の思想から離れてしまいます。もし大事なものが有ったなら毎日お使い下さい。

○浅川伯教・巧兄弟

今日は、浅川巧・伯教兄弟のことも、ということですが、私が韓国へ通い始めて何年位になるでしょうか。

あの柳宗悦に朝鮮の器や道具類に出会うきっかけをもたらしたのは、兄弟の兄である浅川伯教がこの我孫子の地に持参した名もない、民衆の生活用品である朝鮮白磁の壺であったと云われております。

柳はこの無名の工人が作った生活用品の美しさを求めて朝鮮に渡り、伯教の弟巧(たくみ)と出会います。この浅川巧については高崎宗司先生の『朝鮮の土になった人』江宮隆之さんの『白磁の人』などに、その人柄について詳細に書かれておりますのでご存知の方も多いと思います。

柳を朝鮮へと向かわせた浅川巧ってどういう人なのか知りたくなり、コスモスの花がとても美しく咲く韓国へ出かけるようになったのは、13・ 4年前の初夏だったように思います。ソウルのインチョム空港から東へ80㎞マウリの丘という、丘にある浅川巧の墓に詣でるという旅でした。

浅川巧は1891年(明治24年)に山梨で生まれ、農林学校を卒業後、朝鮮総督府農商工務部山林課の技師としてソウル渡り、緑化運動に尽力しつつ半島を隅々まで歩いたのです。その途中で韓国の民衆の日常使っている道具の中に丈夫で長持ちのする「健康の美」というものを発見したのでした。

韓国陶磁器の研究家である兄の伯教と共に、半島の約700ヶ所近い窯跡を調査しながら民衆の生活用品の膳などにも、その美を見出していったのです。柳宗悦を朝鮮の器や鉢や膳なども含め、「用の美」へと導いたのは浅川巧ではなかったのか、と思っております。

その後巧の韓国への思いを知りたくて、とうとう、私の親友になった方の家で、ソウルのマウリの丘に近いところに、2年間一部屋借りて毎週末2泊3日位、韓国の普通の人と暮らす程になった時期も有りました。

巧は40歳の若さで病に倒れ、それを知った柳は急ぎ朝鮮に向かったのですが、残念ながら帰らぬ人となりました。

巧程心から朝鮮を愛し、普段から朝鮮服を身につけ、朝鮮語をマスターし、現地の人々から非常に慕われた人はいなかった程でした。朝鮮を愛し朝鮮の人に愛された巧の墓は、ソウルを眼下に臨むマウリの丘、巧の愛した白磁の壺を形どってお墓と並んでおります。又お墓の隣に記念碑が建てられ「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心のなかに生きた日本人、ここ韓国の土となる」とハングル文字で記されております。

会場風景
会場風景

浜さんのお話はその他にも浅川兄弟にまつわる数多くのエピソードや、又沖縄の芸術・文化、琉球王朝時代の花織(はなうい)沖縄読谷(よみたん)の与那嶺貞さんの手仕事などありました。

手賀沼の自然環境のもとで交わされたであろう「白樺」の仲間達の会話、柳宗悦とその仲間によって建設された「日本民藝館」等と非常に内容のあるたくさんのご講話を頂きました。そして、「文化が足元にある我孫子の皆様が大変羨ましい」という言葉で終わられました。まだまだ沢山の興味深いお話をいただきましたが、残念ながら以下は割愛させていただきましたのでご了承ください。